あくまで平和の祭典として
2021-07-21
「クリスマス」「ハロウィン」「バレンタイン」本質的な意味を忘れた乱痴気騒ぎになってきた社会
あらためて「平和」を誓うための機会として
いま僕の命があるのは、誠に奇跡的なことだと思うことがある。76年前のかの大戦で多くの人々が犠牲になり命を落とした。その際に何とかして「つないだ命」によって、僕らには「生命」が与えられた。僕の父などは子どもながらに「機銃掃射」を受けて、かろうじて近くの家に飛び込んで命を「つないだ」のだと聞かされたことがある。「その時もし」を想像すると、かの大戦は他人事ではなく僕自身も「戦争体験者」であるように思っている。子どもを上空の圧倒的に優位な位置から鉛の弾丸で撃ち殺そうとする狂気、そんなことがこの地球上にあってはならないといつも思ってきた。恋し合い愛し合う人々が戦争の狂気によって引き裂かれる、その悲惨さを当事者意識を持って語り継ぐ必要がある。「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」では、講義終盤のこの時期に毎年、このようなテーマを考えてもらっている。「生まれ変われたなら また恋もするでしょ」(サザンオールスターズ『蛍』)を課題曲として聴きながら。
かの大戦の反省を噛み締め平和を誓い、戦後復興が為されたことを世界に表明したのが1964年(昭和39年)の東京五輪であった。世界的な祭典ができる人々の力、そしてアスリートたちの活躍に多くの人々が勇気をもらったことだろう。57年前の「TOKYO1964」には内外に大きな意味があったのは確かだ。その記憶はない僕は、その後幼少の頃から五輪を観るたびに「平和」のことを考えていたように思う。だが五輪でのテロ行為やボイコットなどを知るたびに心を痛めてきた、果たして「平和の祭典」は名目だけなのかと。そして特に1990年代頃からの際立った商業主義的な雰囲気の漂う大会に少しずつ疑問を抱いてきた。その内幕が今回の「TOKYO2020」で暴露されつつある。あらゆる意味であくまで「平和の祭典」であるべき大会。この大会を敢行することが「新型コロナ感染」を克服したことに直結するのだろうか?片や人々は東京で「緊急事態」の生活を強いられながら、世界にだけ良い顔をする体裁と建前の大会になることを懸念する。「平和」は決して建前や体裁では創れないからである。冒頭に記したように、明治以降に西洋の行事を本質を無視して取り込み、乱痴気騒ぎをしてきたこの国のかたち。僕たちは何を祈り、この祭典を見守ればよいのだろうか?
厳しい状況には目を瞑り
突き進む先に何があるのだろうか?
「つないだ命」を思いつつ冷静な目を失わずにいようと思う。
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