当事者の立場で考えるために
2021-07-20
生徒・学生の身になって「親身」=「肉親であるかのような」
みずからその身になって・・・・・
人はどれほど「当事者」の立場で物事を考えられるのであろうか?昨今はあまりにも所謂「当事者意識」のない事例が社会に溢れており、常々考えさせられる機会も多い。また新型コロナ感染が世界中に拡大したことで、各国の政府や社会の「当事者意識」も浮き彫りにしたようにも見える。為政者の被災地視察などの姿勢を見るに、果たしてどこまで「当事者意識」があるかなどと考えてしまう。社会や国家の問題ばかりではなく、個々人の考え方にも他者に対してどれほどにその人の立場で考えているかには差が大きいだろう。基本的に「親身」であるはずの教員の場合でも、その深浅は少なからずあるものだ。文字通り「親身」とは、「親の立場になって考える」ことであるはずで、「親」には「みづから」という意味もある。「自ら生徒・学生の立場になって」というのは簡単なようで難しい。かつて城山三郎の小説『今日は再び来らず』に登場する予備校は、「親身の指導」を主眼とした教育をしていたことが思い返される。
相互に「当事者意識」を持つためにも、「自らを語り合う」機会が貴重だ。僕らの仕事で言えば、どれほど講義などを通じて学生が語る機会を設けるかが重要である。昨日はオムニバス(複数教員)担当講義で学生が「国語教師を目指した理由」を主軸に、どのような学生生活を送り講義から何を学んだか?などを盛り込んだスピーチを発表する機会であった。自身の小中高での「国語教育体験」なども語られて、クラスの学生同士も僕ら教員も「当事者意識」を持つのに有効な機会であったと実感できた。「みづから」を語るということは自ずと個性的な内容になり、手元にメモ書きはあるにしても学生らの「私はこのようなわたしだ!」という訴えるような語りに未来が見えた。僕ら教員は、そんな個々の志望や学びの立場になって教員となる支援をしなくてはなるまい。「教える」とは「自ら気づく」ことでもある。「学ぶ」とは其処にいる人の立場を「真似ぶ」ことでもある。僕らは向き合っている「当事者」の立場になる想像力を養うためにも、文学を学んでいるのだ。
「この子らを孕りし日の母のことふと思う試験監督しつつ」
(『俵万智』サラダ記念日より)
〈教室〉ではいつも「親身」になって考えることが必須だと教えてくれる短歌だ。
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