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驕らず素でありますように

2021-07-07
欲なき素朴なこころでいるために
自らを見つめるもうひとりの自分
選歌に際して思うこと・・・

先月開催した「日本国語教育学会西日本集会宮崎大会」において、視聴者からの質問として次のような内容があった。「児童らの創った短歌から秀作を選ぶ際に明確な根拠を持ちたいが、どのように考えたらよいか?」というものである。「学校」では、いや昨今の社会ではと言った方がよいだろう、「根拠を持って意見を言え」ということが一般的な通念になっている。小学校の授業で何らかの発問に児童が答える際も、「私は・・・・・だと思います。なぜなら・・・・・だからです。」という発表の話型があって、児童らはその通りに機械的に言う習慣化が為されていることは少なくない。世の中は「エビデンス(証拠)」などとなぜ英語を使用するのかわからないが、クレームを言う際の決まり文句のようにもなっている。その割には「科学的根拠」が明確に示されずに進められる事態が多過ぎることに愕然とする社会の衰退ぶりである。さて質問にどのように応えたかに話を戻そう。新聞歌壇などでも選者を務める俵万智さんからは、「(根拠など)無理だと思います。新聞でも複数人が同じ応募短歌を読んでいるが、みんな選ぶ歌は違うものです。」と答えた。そこに短歌を選ぶということの核心が述べられたように僕自身は受け取った。

ここで整理しておくと、「根拠」「証拠」「理由」は同じではない。「根拠」と「証拠」は科学的なデータに基づくという範疇で使用されるわけで、「拠り所」という点が強調される言葉であろう。だが「理由」であれば存分に主観的でよいわけで、「好きだから選びました」で何ら問題はない。歌の批評においてどんなところに惹かれて選んだかがはっきりと語られれば、それで何ら問題はないのだ。選歌に異議を唱えるほど、短歌をわかっていない行為はない。僕自身の経験でも「この歌は選ばれるだろう」という驕りがある際は、たいていは選ばれることはない。特段に選んでいただいた歌はすべて、「自分では選ばれるとは思わなかった」歌たちである。驕りがあると、人間は自らが見えなくなる。学校で「うちの子がなぜ・・・」という保護者の物言いがある場合、たいていは「うちの子」の本質を保護者が見えなくなっているわけだ。偏狭な愛情を注げば注ぐほど「うちの子」は育たない。短歌はそれにも似ている。僕自身も講義課題である創作短歌を選ぶ立場を経験して思う、驕らず素である表現にいつしか惹かれている。くり返すが、牧水は歌人として有名になっても名乗ることなく「無名の旅人」を貫いた。短歌とは、欲なき澄んだ自分でこころを見つめ己を知るための「ことば」なのだろう。

「七月六日はサラダ記念日」
驕らず素である代表的な秀歌
あなたがいつも己を見つめられますように。


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