短歌と一体になるあくがれのこころ
2021-07-06
「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」
(『古今和歌集』仮名序・紀貫之)
短歌をよむ(読む・詠む)には、それにふさわしい「心」になる必要がある。ある一定の思考状態の時、どうしても短歌頭にならない。一般的に言うならば、映画やスポーツ中継を観る際にはそれにふさわしい思考回路になっていると自覚する人が多いだろう。また美術館で絵を観るならば芸術頭になり、ライブ会場で音楽を聴けば音楽頭になる。時折、自宅のTVで映画などを観ていて電話が鳴るなど「現実」に俄かに差し込まれると、どうしようもない嫌な感覚に陥ることがある。思考は身体まで伴って、ほとんど映画の世界観の中にいるからだろう。こうして我々は避けがたい「現実」の中で生きながら、どこかで「芸術」の域に脳内において旅に出る。「現実」を現実のままに生きていたら、無味乾燥な生きるために必要な栄養素を流し込むようなものだ。人はなぜ美味しいグルメに魅せられるのか、それは「芸術」が必要な理由と似ているかもしれない。
小欄巻頭に記したのは、平安時代に漢詩文に対峙し和歌を公的に認められたものとすべく編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』の仮名で書かれた序文の冒頭である。漢詩文ではなく「やまとことば」で書かれた「和歌」なら自由に思いの丈が表現できるので、「人の心」が「種」のようなもので、どんなことでも「よろづ(萬)の言の葉」へと芽が出て成長するものだと宣言している。「抒情」こそが詩歌の根源であり存在価値であると、高らかに宣言した名文である。天皇の命により編纂された同集は必然的に政治的な側面はあるのだが、「人の心」を述べた点は現代短歌にまで通底する壮大な理念である。近現代短歌になってようやく「我」をその内に詠むようになった。若山牧水は「自分を知るために短歌を詠むのだ」と言って、歌こそは自らの「命の砕片」であるとまで述べている。若き日の恋にも、自らがどんな「苦悩」に置かれているかを知ろうとするために短歌に表現した。そしてどんなに短歌界で有名になっても「無名の旅人」であった、と伊藤一彦氏の著書に教わるのである。牧水の短歌の根源は「あくがれ」、「いま此処(在処)」から「離れる(離る)」ということ。それは「現実」を捨て去り、「言の葉の芸術」の世界に行くことでもある。なかなか牧水の境地には至らないが、最近は少し「あくがれ」の心のあり方の入り口に立てたのだと思わないでもない。
歩けば短歌ができた牧水
声に出して短歌の空気に包まれる「我」を創る
潤いなき現実に枯渇してはならない。
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