「私」からこぼれでるもの
2021-07-01
「おもい」と言葉との関係言語外の笑いなどを含めて
本当に「私」がおもっていることなのだろうか?
再び若松英輔『種をまく人』(2018亜紀書房)から、日常生活に引きつけて考えたことを覚え書きとしておきたい。「『思』『想』『憶』『顧』『忖』『恋』『惟』『念』、これらがすべて「おもう」を意味する。」(同書P131)とある。声で言うとすべて「おもう」で過ごしてしまいそうだが、厳密にはこれらの漢字のどれかを選び取る脳内活動ということになるだろう。人は「おもいをつたえたい」とよく言う、夫婦でも恋人でも親子でも他人でも。しかし、どの「おもい」であっても、「そのもの」を他者にありのままつたえることはできない。はかなくも「おもい」はつたわるものと信じて、言葉を含めて言語外表現を駆使して相手に伝えようとする。だがあくまで「おもいのようなもの」が伝わるだけで「おもい」そのものではない。その「おもいのようなもの」を受け取る側が受け取る側の感性で「解釈」しようとする。「伝わったもの」はその受け取る側の独善的な「解釈・理解」に大きく依存し、場合によると「曲解」されて「伝わる」場合も少なくない。誠に「言葉+言語外表現」というのは難しい。
僕自身は人がするあらゆる「表現」に過敏であるのか、考えなくともよいことを受け取ってしまうことも少なくない。よく学生など若い方に多いのだが、他者と会話をしていると照れ隠し的に発言後に必ず「笑い」を付加する人がいる。この現象は確か10年ほども前に小欄にも記した記憶があるが、当時より現在はこの「笑い」をする者は少なくなった。ゆえに余計に敏感にこの癖のある表現をしている輩の「おもい」が気になってしまう。照れ隠し・自嘲・辛辣の薄め・等々、真に受けるとそのような「記号」として、その「笑い」にも相手の「おもい」が載っているのではないかという気になる。これは、「言葉」「コトバ」に向き合って研究している立場の性(さが)なのであろうか。「涙」や「笑い」を考えて見るとわかりやすい。ドラマや映画を見ている際のそれは、明確な「おもい」を本人も自覚しないで勝手に流れ出て勝手に吹き出すものだ。むしろ「涙の理由」がその場で明晰に「わかる」人は、涙を流し得ない。「笑い」に理屈をつける人は真に自らを解放し得ない。「・・・のため」ばかりが先行する世の中で、自覚なく漏れ出づるものを大切にしなければならないこともある。だが時に公的事務的な場面で、「おもい」らしき表現に出会ってしまうと、その落差に心が傷つけられてしまうこともある。誠に人の世は住みにくい。
多重多面な「らっきょう」の皮のような「私」
それぞれの言葉の密度を感じながら生きる
「今ここ」にしかない「コトバ」を見極めたい。
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