韻律の身体化ー声が短歌を創っている
2021-06-23
牧水の母校・日向市坪谷小学校の朝の朗詠朗詠のリズムで児童自らの短歌も創られていく
さて、大学生に短歌創作の課題を出すと・・・
先週末の研究学会の熱き対話が冷めやらぬうちに、あらためて「短歌は声で創る」ことが大切だと実感している。若山牧水の母校・日向市立坪谷小学校の習慣としての朝の朗詠、毎朝児童は登校すると玄関前で校長・教頭が出迎えて、ともに提示されている「牧水かるた100首」のうちから選ばれた短歌1首を独特の節回しで朗詠する。その姿は宮崎県内において、牧水祭や牧水賞授賞式で公に披露されることも多い。今回も俵万智さんが対話の中で、まだ東京在住の際に牧水賞を受賞し式典でその朗詠を聞いたら涙が止まらなくなり、その後の受賞者挨拶が大変であったというエピソードを披露してくれた。確かに僕も折に触れて児童の朗詠を聞くと、不思議と涙ぐんでしまうのでそれはなぜかと思っていた。素朴な児らがひとえに牧水の短歌を朗詠する生命感、学年を超えた児らがお互いを認め合うかのように個々の発達段階の声を発する共鳴感、もちろん朗詠されている牧水短歌の自然・故郷・家族との親和感などの要素が、声となって僕らの心の奥に届くというのが涙の要因であろうか。
このように朗詠が身体化している児童らの創る短歌は、「圧倒的な韻律感」があるというのが対話で話題となった。「読むは詠むこと」とよく短歌創作で云われるのだが、その「読む」「詠む」にはそれぞれ「声に出してよむ」という過程を忘れるべきではないということだ。坪谷小学校の児童らは「指折り数え」などしなくとも「五七五七七」の形式を刻むことができる。平安時代の資料では、まだ漢詩が中心で和歌が復興してきた時代に、宇多天皇が旅の途次で一行に和歌創作を求めたが、多くの人が和歌に慣れておらずその創作態度の稚拙さを「指折り数えた」と記してあるものがある。和歌短歌は「文字を置く」のではなく、「声で詠う」ものなのである。さて「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」という全学部対象の基礎教育科目も10回目を迎え、課題に短歌創作を課す段階に入った。多様な大学生の受講者が提出する短歌はどうであるか?何よりも韻律感の欠如が気になってしまう。「五七五七七」の形式に載るならば字足らず字余りは問題にあらず、「四句」で途切れているとか、中には「五七五」の「俳句」を提出してくる者までもいる。少なくとも小中高時代に多少でも短歌を教科書で学んだはずであろうが、圧倒的な韻律感の無さに愕然とすることがある。発達段階が上がるにつれて失う「音声言語」の感覚、この日本語の豊かな響きを身のうちに持たずして、「国語」で何を学んだというのだろう?さらに機械的な「論理」などという看板に塗り固められようとしている「国語」、短歌朗詠に泣ける感性をせめて宮崎では継承していかねばなるまい。
やはり「音声化」の重要性を再認識
短歌は「文字」のみで味わってはわからない。
「聲」こそが「生命」であることを宮崎から発信したい。
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