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和歌・短歌への偏見を解くために

2021-06-11
学校の先生が抱く「和歌・短歌」観
「必要感がない」「ハードルが高い」「系統性がない」
散文至上主義という近現代の偏見のうちに

例えば、高等学校の古典の授業を考えてみよう。「物語・日記」などの散文に比べると「和歌」単元はどうしても後回しにされる傾向が一般的である。「入試には単独で出題されない」などの生徒の実利的な理由を前面に出しながら、実は教師が「和歌を扱いにくい」というあたりが大きな理由のように思う。教員免許状更新講習などで講座を立てると、「読解力」とか「音読・朗読」などを標榜すれば多くの受講者を集めてきたが、「和歌・短歌」とすると自ずと”客足”は鈍る印象がある。どうやら「学んでみたいが優先順位は低い」というのが多くの教員の実情らしい。少なくとも「小説」が文学の中核となったのは明治以降であるだろうし、文学の起源を考えれば口承性や音韻に富んだ歌謡的なものを想定するのが妥当であろう。また研究者の中にも「学生に和歌・短歌」を創作させるのは「ハードルが高い」と考えている人が少なからずいて、以前に学会で「どんな点からハードルが高いと思うのか?」と疑問を呈したこともある。

「偏見」を『日本大百科全書』で繰ると、「客観的な事実の裏づけや合理的根拠が認められないのに人が示す非好意的な偏った態度」とある。また「偏見は、その対象との直接的な接触の経験に基づいて形成されるというより、しばしば自分の所属する社会集団内に存続しており、多くの人々に共有されているものが、年少の頃からの大人とのコミュニケーションを通して学習されることが多い。」ともある。いわば「教師」という「集団内」において「和歌・短歌」に対する「偏見」が形成され、先輩教師が後輩とコミュニケーションをすることで負の連鎖が止まらないのが現実ではないかと思う。研究者を見回すともちろん「文学研究者」であれば、「和歌文学会」に一定の会員が存続しているように「和歌・短歌」研究者は一定の数はいる。だが、「国語教育」の研究者で「和歌・短歌」のみを対象とする人はほとんど皆無である。かく言う僕も「音読・朗読研究」を対象にしている側面もあり、「和歌短歌学習」が全てではない。要するに小中高校の「偏見」を解く存在が非常に稀少であると言わざるを得ない。ならば「短歌県日本一」を目指す宮崎から「和歌・短歌」学習が誰でもし楽しめる豊かな学習であることを、どんな抵抗を超えても訴えて行くべきと決意を新たにするのである。

教職大学院の講義で学んだこと
大学の研究者がより小中高校教師と連携すること
日常的に豊かな言語生活を目指すためにも。


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