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学ぶ自由と利害得失

2021-06-02
学びたいはずの選択
感染対策という大義
虚空に浮いた講義を省みて

学びは自ら進んで主体的で自由でありたい、誰しもがそう思っているはずだ。中学校・高校ではよく「暗誦」をさせたりするが、強制的に評価で縛り付けテストを行うがゆえに「仕方なく」覚えることが多い。テストが終わると氷のように、暗誦した内容は脳内から溶解し流れ去ってしまう。しかも「強制された」という経験が負の作用に働き、「暗誦」を行なった科目までもが嫌いになってしまう場合がある。主に「古典」や「英語」にこのケースがよく見られる。昨今の高校ではさらに「入試に要るか要らぬか」で、生徒の学ぶ意欲が大きく左右されているケースを多く耳にする。生徒のみならず高校教員までが同じ感覚で、「国語」の中の「漢文」などは「要らない」と平然と言い放つ教員がいる。あくまで「入試」が最大の基準であって、「文化」「歴史」「芸術」などの視点で生きることを豊かになどとはほとんど考えない。「学び」というものをこの国では「利害得失」にしてしまった際たる例である。

企業は経常利益、大学は就職率、TV番組は視聴率、いずれも結果のみが重要視される。ならば大学講義は、単位取得の利害得失のみが大切ということなのだろうか?僕の母校ではその学風もあって、「学問の自由」を前面に出した講義科目が多かった。出席は取らず強制力はないのだが、その講義内容から学べる内容に自ずと多くの学生が耳を傾けた。もちろん学生側に「利害得失」の思考がなかったわけではなく、情報誌サークルが「楽勝科目」かどうかを詳細を報じていた。僕はよく「ゲテモノ喰い」と言って、評価が厳しい科目に敢えて挑む習性があった。「厳しい」中にこそ学びがあると考えたゆえである。その上でやはり、「自由」でも学生を学ぶ気にさせる科目は理想だと思っていた。さて自らが講義を担当する現状では「感染対策」という大義があって、「対面+オンライン」の併用講義を展開している。受講者数が多くなったゆえであるが、この初体験の中で前述したような点に心底苦心をしている。開講当初から「人数制限」をすべきとは思っていたが、より多くの学生に短歌を好きになってもらいたいという欲望がそれを拒んだ。まさに「対面」に来る意味は何か?その場に「利害得失」を超えた学びを醸成せねばなるまい。大教室で何も考えず「密」に講義をしていればよかったのか?否、自らを厳しい立場に置いて自ら学ぶ「ゲテモノ喰い」は今も治らないようだ。

対面・同時双方向オンライン・オンデマンド
様々な講義方式の融合に各々の利点と欠点がある
最後はあくまで短歌の魅力だけを信じている。


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