fc2ブログ

仁あれば栄え不仁なれば辱められる

2021-05-31
親への愛情 子への愛情
大切に思うとはどうすることか?
「孝」=父母に真心をもって仕えること

教師として何より大切なのは、児童・生徒・学生らを自らの子どものように思えるかどうか?だと思っている。教師論を学生や高校生に話す機会には、「この子らを妊りし日の母のことふと思う試験監督しつつ」という俵万智さん『サラダ記念日』の歌を紹介する。教師が「試験監督しつつ」母の子への思いに近づく心がよく表現されている。「愛情」は「妊りし日」に既に芽生え、子の将来を案じ自らと同体である命への思いを生涯抱き続ける。その「愛情」を肌で感じる「子ら」としても、自らの「幸せ」よりも「子ら」を優先する思いを存分に受け止めることで、「孝行」の思いを抱くことになる。お互いにその思いの均衡があればよいが、時として親の「愛情」のみが過剰になり「子ら」の心に通じないこともある。親子と師弟は、このような意味で「愛情」の相互関係を築く共通点があり、その点に甚だ心を悩ませるものだ。

道を歩いているとか買物をしている見知らぬ老人が目に止まる。横断歩道などを渡っている際は特にだが「何とか安全に帰宅して欲しい」という願いを持つ。その老人が「自分の親だったなら」という「愛情」が、自然に心の中で作用するのだろう。昨日はウォーキングをするいつもの公園で、自転車に乗れるようになったばかりの幼子が転倒する瞬間を見た。20mほど先であったが、思わず「大丈夫か?」と大きな声が出てしまった。すぐに立ち上がり擦りむいた膝を気にしつつ、再び自転車に乗り出したので安心した。その時に思ったことは駆け寄って「手助けをする」手もあったが、見護って子どもが自ら「立ち上がる」のを待つことも大切なのだということ。獅子は我が子を「谷底に突き落とし這い上がるのを待つ」と云う。怪我をしたとしても「見護る」ことをしなければ、その子は自転車を公道で乗るための自立はできない。親も教師も、いつまでも「子ら」に手を差し伸べることはできない。苦労している姿を見護るのも「愛情」である。標題は『孟子』の一節、親と教師のみならず、政治に「仁=思いやり」があれば国は栄えるとある。

自立した「子ら」が親を思うこと
見護ってくれたあの日を忘れない
「仁」の尊さをいつも教えてもらっている。


関連記事
スポンサーサイト



tag :
コメント:












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/4193-076f63c2

<< topページへこのページの先頭へ >>