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「国民的」と云う欺瞞

2021-04-27
「国民的・・・」と語られた時
果たしてその本質は何なのだろうか?
新型コロナが暴いた「個人」や「我」

若山牧水やサザンオールスターズに、「国民的」と云う形容がつけられることがある。近現代短歌史に欠くべからざる歌人として、全出版社(高等学校)の教科書に短歌が掲載されれいる牧水。43年間にわたりヒットチャート上位の曲を創り続け、Jpopの先端を走り続けて来たサザン。国民の多くが知り得るという意味において、そのように語られるのだろう。過去には最大視聴率が50%を超えたことのある「8時だよ!全員集合」なども、「全員」の響きよろしく「国民的娯楽番組」と言われた時代があった。だが視聴率が「50%」で「怪物番組」なのであり、単純に考えて「半数」でしかない。「視聴しない」という個人も半数はいるわけで、「国民的」と呼ぶのは強引であると言わざるを得ない。現に僕の学校の級友や従姉妹なども、家庭で「全員集合」の視聴が禁止されていた。そんな「個人」の考えが背景にあっての「国民的」なのである。

「国民的」とすぐに言いたがる体質は、明治時代に由来する。幕末から明治の世の中を迎えて、各藩が「国」であった世の中が「日の本」の統一した国に大きく転換した。「尊王攘夷」の思想のもと、「夷狄」(外国人を野蛮と卑しめて呼ぶ語)と呼んだ外国船の渡来は「国」の観念を一変させた。(今年の大河ドラマを観るとよくわかる)幕末の志士は各藩の方言で喋るゆえ、なかなかコミュニケーションもままならなかった。そのために新学制が明治33年に制定され、「国語」という教科が誕生した。「令和」に改元される際に典拠として話題になった『万葉集』が「国書」であり「国民的歌集」だと喧伝されたのは、この明治の方針に由来するものだ。既に僕ら多くの研究者は、『万葉集』を「国民的」とは思っていない。明治政府が「国」を「形」にするために「国民的シンボル」を作り出し、半ば強引に民に押し付けたともいえよう。

明治から153年目の今日、新型コロナがこの社会をあらためて暴き出している。都市部での緊急事態宣言、地方でも感染が急拡大している折ながら、「(国民的)聖火リレー」が宮崎にもやって来た。感染対策は「各藩の大名」がやってくれと言うが如く、地方自治体の長に委ねられている。いくつかの県知事は感情を露わに、「中止」に言及する会見を開いたりしている。歪極まりない「この国のかたち」、世界もまた危うさを含有するゆえに「国」として過剰に権力を行使するところが目立つ。今日向き合う「ひとりの学生」を尊重するように、「個人」が何よりも大切にされるのは何世紀になったら成し遂げられるのだろう。

あらためて考えたい「国民的」
僕らは社会の何を信じたらよいのだろう?
明治以降の社会に生きるという視点で考えたい。


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