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「顔文一致」分裂的な盲信

2021-02-27
『檸檬』梶井基次郎
あなたは教科書で写真を見たことがありますか?
漱石・鷗外・芥川・太宰に牧水・啄木・・・

早稲田大学演劇博物館主催「逍遥祭 逍遥をかたる人々〜逍遥祭のあゆみ」というオンライン講演に参加した。演劇博物館副館長の児玉竜一氏により「逍遥祭」のあゆみを辿り、坪内逍遥を囲む人々について貴重な映像や音声も活用した講演であった。「逍遥祭」とは坪内逍遥が生前から「囲む会」が熱海などで開催され、没後は命日の2月28日に開催されてきたと云う。貴重な映像や音声の中には歌人「窪田空穂」が映るものや、演劇界からは「久保田万太郎」の肉声なども紹介され、早稲田大学の文学・演劇における研究の拡がりの要に坪内逍遥が大きな存在であったことをあらためて認識した。昨年から僕自身は、若山牧水が早稲田大学の学生だった頃、坪内逍遥博士の講義を聴きいたく刺激を受けた内容について評論を執筆した。掲載雑誌は近々刊行される運びとなるが、牧水の歌作にも逍遥先生の文学論が活きているといえるのだ。

さて、オンライン講演での映像や音声の紹介はさることながら、「顔文一致」という指摘には大変に興味を覚えた。冒頭に記した梶井基次郎の例で語られたのだが、みなさんも梶井の『檸檬』という繊細な小説を教科書などで読んで、その後に梶井の顔写真を見た際には、ある種の衝撃が走らなかっただろうか。小説内に描かれる人間の微細に揺れる心のあり方を思うに、やはり教科書に掲載される梶井の顔写真があまりにもイメージ的に分裂しているからである。(ぜひ「梶井基次郎」でWeb検索をしてみると理解しやすい)我々は近・現代作家に関しては漱石・鷗外をはじめ多くの肖像写真を知っている。僕などは研究室に若山牧水の肖像を掲げている。「あの顔」から「あの口」によって紡ぎ出される「短歌を読む」という意識がどこかで付き纏う。残念ながら肉声が遺らない牧水の場合、その「顔」と短歌の「文(体)」は一致していると思い込んでいる。だが古典和歌の歌人などの場合は、あくまで想像上の肖像画であることも多く、僕らは人麻呂・貫之の「顔文一致」を考えることは稀である。『平家物語』などを読むと、名の知られた「源義経」であっても敵方平家の武将たちは顔がわからず、良い鎧を着ているなどの状況で判断していたと記されている。Web検索が盛んな時代にあって「文学作品表現」と作家の「顔」、実は読者の中で分裂的に盲信したイメージが増幅していることも多いように思われた。

「作家」と「文学作品」との関係をどう読むか?
中学校・高等学校での「国語便覧」を読むのは楽しい
作家たちの顔に、身近な誰かを当て嵌めた経験があなたもあるのではないか。


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