「麒麟がくる」その時は?
2021-02-08
大河ドラマが描く「本能寺の変」「明智十兵衛光秀」の生き様
戦さのない天下泰平の世「麒麟」はいつ来たのか?
大河ドラマで恐く辛く苦しいが、個人的に観ずにはおれない二つの歴史的事変がある。一つは「坂本龍馬暗殺」、そしてもう一つが「本能寺の変」である。いずれも「新たな世の中」を目指していた革命児が、志半ばで闇に死を迎えねばならない戦慄が背筋に冷たく走るからであろう。昨年からコロナ禍での撮影の困難により越年放映となった「麒麟がくる」は、最終回「本能寺の変」を迎えた。言い方を換えれば、この「本能寺」一点に向けて1年間の大河が流れて来たともいえよう。歴史上の一般的な認識で明智光秀は、天下を手中にする目前の織田信長を、謀反で殺める反逆の臣下とされている。過去の大河ドラマにおいても、信長ー秀吉という歴史上の道を描いた作品では、秀吉が「中国大返し」で光秀を討伐しようとするように「悪者」のイメージで描かれて来た面があった。
しかし、今回の「麒麟がくる」では、あくまで「明智十兵衛光秀」は「戦さのない世の中」を目指す志強き平和主義者であるように描かれた。徳川家康に自ら亡き後の世の中を託す文を忍びである菊丸に託し、信長の元で理不尽な仕打ちを受けた光秀を目の当たりにした家康が志を継いだ形になる。今回の大河は「明智光秀」ではなく、あくまで「十兵衛」を限りなく愛した信長の物語でもあった。十兵衛は若かりし頃、美濃の斎藤道三から「大きな世の中を目指せ」と教えられ、信長を前面に立ててそれを実行して来た。最終回で十兵衛が「殿(信長)は変わりました」と諌めるのに対し、信長が「お前がわしを変えたのじゃ」というのは、この大河の前半を反芻させる大きな台詞のやり取りであった。いつの世も人間はそうなのかもしれない、身近に愛すべき慕う人物が自らに対して不本意な言動を取るのは、「自分がそうさせている」のかもしれないと云うこと。戦国の世を平定するために、自分に歯向かう勢力を尽く殲滅せむとした信長像が歴史的な認識であった。だが、今回の大河で信長が十兵衛に「ともに茶でも飲んで暮らさぬか」と持ちかけていたことと、「本能寺」に攻め込んだ軍勢が「十兵衛」と知った際の「是非もなし」が呼応することで、十兵衛とともに歩み「麒麟がくる」世を目指した信長と十兵衛という親密な関係が鮮明に浮かび上がった。
天下泰平の大きな世の中
秀吉の時代を越えてようやく「麒麟が来た」のは?さらなる近現代の戦さの歴史
歴史は史実としての事項のみならず、人間ドラマである味わいが麗しい。
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