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飾往虚帰にはならぬように

2021-01-24
父母らと義母との会話
僕が産まれる以前や物心つかない頃の話題
いかに自らの生命が成立しているかを知る

時に小欄をなぜ書き続けているのか?などと考えることがある。日々の記録・備忘、考えの整理、文章書きのウォーミングアップと鍛錬、所有した情報の共有、考えの主張、企画や実践の広報、等々・・・・・。「何のために役立つか?」と短絡的な効果を狙う思考が昨今は蔓延っているが、小欄の場合はまったくそんな思考の元に続けているのではなく、「労力対効果」などを考えている訳でもない。もとより小欄に定まった「人格」がある訳でもなく「三百六十五面体」であり、統一的な思考があるとも思わないでもらいたい。人は日々「生まれ変わ」るものであり、この朝にまた生まれ今日の自分は今日で終わる。この国の国語教育の哀しい成果であるが、文章があると作家論的に書き手に統一的人格があると勘違いしている読み手も少なくない。

「虚往実帰」は空海が唐へ渡った際に使用したとされ、中国の思想書『荘子』に典故のある四字熟語である。端的な意味を示すならば「何もない虚(=空)の心で(学びの場)に往き」「(学び)を実らせて帰る」ということになろうか。空海が真言密教の教義を短期間で唐の国で得度したことは、有名な歴史的事実であろう。その「入唐」そして「帰国」の学びそのものが「虚往実帰」であった。嘗て高野山に宿泊した際の宿坊で、かもいの上にこの書字を発見した時は感慨が一入であった。この空海の事績による意味があるのを承知で、僕は僕なりの解釈を持っている。日々を生きると諸々と雑多なことが耳目に入ってくるが、そこから「虚=空」な心に「往く」ことで物事が客観的に眺められ、現「実」に生きるための心の糧に「帰」ることができるのではないかなどと解釈している。物事は「飾る」ことで取り繕うと、むしろ「虚」なる現「実」に「帰」することになる。せめて妻や父母らの間では、飾らない装うわない「心」を持っていたいと思う。誰しも人は「分裂体」である、日々において「虚」を自覚し人に飾らず、どう考え行動したら「実」に帰れるかを考えるべきではないか。

日々を幸せに生きるために
飾りて事実を覆い隠せば虚しき行末があるばかり(「飾往虚帰」である勿れ)
あらためて「虚往実帰」を噛み締めている。


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