「時」を創るのが短歌
2020-12-19
「『時』を区切り、無限から有限へと転換することだ」
(角川『短歌』12月号特集「比喩の魔力」川野里子さんの文より)
いまも絶えず「時」が流れている。だが「いま」と言った「時」も多様で、みんさんが小欄をお読みいただいている「時」もあれば、僕自身がこの文そのものを書いている「時」もあり、多様でいくつもの「時」ということになり定まらないものである。だいたいにして「昨日」という見えず掴めない「時」を区切ることで、その「時」のどこかで体験したことや見聞したことを元にして、「有限」かに見せかけるように小欄の文が成り立つ。決して止まることのない「時」に無謀にも投網を打つかのように、とりあえずWeb画面に刻みつけようと足掻く。だが投稿し終えた瞬間から「過去」となり続け、遺跡か化石のようになり打ち上げた花火が忘れ去られるように骸だけの文字となってしまう。
冒頭に記した川野里子さんの「『時間』を創り出す比喩」は、誠に示唆的な文章内容だった。短歌の「時間、時代、世代の比喩」が、誠に「人間的」な行為だと説く。例えば伝統的な古典和歌からの主要な主題である「四季」について、「四季という概念獲得とそのバリエーションの展開は漠然とした無限の時間の流れのなかに人間の時間を刻みつける行為なのだ。」とある。さらに近代の「私」の時間意識を例歌を引きながら述べる。「比喩」をテーマにした文章であるが、和歌から近代短歌への変質を誠に巧みに掬っているという意味で、「短歌史」の「時」というものを「有限」に切り取っている。その「短歌史」の「時」に、僕ら自身の参加を促すかのように。
いまも「無限」に「時」は続いている
いや、もしかすると「無限」という概念そのものが「有限」なのかもしれない
定められた運命の「時」を生きる人間が生きた証として「短歌」があるかのように。
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