fc2ブログ

色々な先生がいるものだが

2020-12-05
漱石『坊っちゃん』
「先生」は一様なタイプばかりでは・・・
個性あってこその多様性のある教育

学生がよく口にすることで「教員に向いているかいないか?」というものがある。もしこの問いに悩むとすれば、「教員はこのような人でなければならない」という一定の指標があることになるが果たしてそうなのか?あらゆる職業に対して同様に思うのだが、「向いているか否か」ではなく「志を持ち続けるか否か」のように思う。もとより、人の性向を二者択一で断ずる思考方法を考え直すべきかもしれない。短歌を創ってみようという段階でも少しやっただけで、「短歌に向いていない」と口にする人がいる。だが果たしてそうなのか?自分の可能性は自分でもそう簡単にわかるわけはない。自分が本気で体験する前に、自分で自分の可能性を摘んでしまっている。何よりこの思い込みが人生を閉鎖的にしてしまう。

「向いているかどうか」も「今すぐに役立つかどうか」も、長い人生で若いうちに悟れるわけはない。学生にこのような思考の傾向があるのは、高等学校の早い段階から「文系か理系か」といったタイプ別二項対立の選択を迫られ、その時点で「国語が苦手か数学が苦手か」という指標のみで他の分野を切り捨ててしまう学校の指導にも問題があるのではないかと思う。キャリア教育の重要性も叫ばれているが、もとより高校生の時点で、どれほど自らの志向や資質能力に自覚的になれるというのか?問題は高等学校の教育のみならず、大学入試制度にも大きな問題があろう。偏差値で輪切りにされた受験選択は、往々にして個々の真の「志」に優先されて発動される。「教員志望」についてもそうだ、学校の「先生」は様々な多彩なキャラクターがいてこそ、子どもたちは社会を知るべく健全に育つのだ。などと考えると決して学生の思考のせいにばかりはしていられないことに気づくのである。

「先生」も社会的に広い視野を
「昭和」には少なくとも多彩な先生がいた
この国の将来を見据えた重大な問題ではないか。


関連記事
スポンサーサイト



tag :
コメント:












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/4016-00991a25

<< topページへこのページの先頭へ >>