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語りや脱線の国語教師

2020-11-28
宮崎の教育の安心
時代に抗って語れる経験と余裕と
文学を国語を好きな生徒を育てるために

宮崎県高等学校国語教育研究会国語部会秋季大会に講演を依頼いただき出席した。県内高等学校の国語教員の先生方が、概ね60名以上は集まったであろうか。僕自身も高等学校での教歴は長く、集まった方々とは同僚のようにともに新しい時代の国語教育を考えていきたいという気持ちを込めての参加であった。僕の講演は午後に設定されていたが、午前中には宮崎で長年教壇に立たれ教頭・校長を歴任された先生の「私の『国語教師』論」のご講演もあった。先生が話される内容には、実に共感する点が多く、嘗ての高等学校現場の余裕と冗談と同僚性に富んだ時代性の良さが、様々な具体例とともに語られた。中には「文学国語」と「論理国語」に分けることを愚策だと痛烈に批判する内容もあり、ある意味でみんなが言いたいが言えないようなことを爽快に言い切る潔さとユーモアに富んでいるお話であった。

「試験づくり」を見ればその国語教師の姿勢がわかる。誠に至言である。この「試験」という部分は、現在の大学であれば「オンライン講義」や「ゼミ」などに置き換えられるのであろう。生徒・学生といかに向き合うか。教材を入試のために「速く読む」ことばかりが求められるような社会風潮であるが、「ゆっくり読む」ことこそが大切である。「すぐに役立つものはすぐに役立たなくなる」「国語は人生に寄り添う教科である」等々、講演の内容として覚書としておきたいことはさらに続いた。閉鎖的な入試対策学力観に拘束されたような現在の高等学校国語、特に文学の学びは瀕死の状態で文学研究者や心ある国語教師からの抵抗が続く現状である。僕自身の講演では、前述した先生の講演に呼応するように、「(文学)創作」や「物語」「演劇(脚本)」などを制作することを目標として「文学で遊ぶ」学びの醸成を意図したものであった。少なくとも「短歌」には、常に当事者の人生が寄り添う。「遊ぶ」とはまさに思考の彷徨を繰り返し「遊学」するということだ。短歌県日本一を目指している宮崎モデルの豊かな国語教育を根付かせる、そんな「短歌」に連携した使命をあらためて噛み締める機会であった。

高校国語と大学入試という長年の課題
人生に寄り添う思考があれば乗り越えていける
語りと脱線の中に明日が見えてくるのである。


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