ひとりでしゃべっている先生
2020-11-13
口頭で話せば聴き手はどう考えるかを配慮する書き言葉であればどんな読み手でもわかるように
相手の中に意味を生成させるということ
卒論指導をしているゼミにおいて既に各章の文章の検討を行なっているが、ゼミ生の文章中の「私は」という主語が気になった。文脈として「私は・・・のように解釈する」という流れなのだが、自らの論理を展開する論文での一人称「私」は不要と思う。「あとがき」などで論文を外側から評した所感を書く際にはじめて、「私」は許容範囲であろう。こんなところにも言語としての日本語の「主語」の曖昧さと、「語り手」という概念の不十分な理解の問題が横たわっているのではないだろうか。裏を返せば、「卒論」は誰を読み手と意識して書かれるのか?という大きな疑問がある。単に「指導教授」というのではなく、少なくとも在学している学部の未だ会ったこともない未来の後輩たちが読んで問題意識を起ち上げるよう広く読み手を意識したい。
ゼミの最中に3年生に問い掛けてみると普段のレポートなどでは、「たぶんあの先生なら分かってくれるだろう」という領域に甘んじて書く場合があると云う。だが少なくとも「国語教員」を目指す学生には、この意識を排除してほしいと願う。「分かってくれるだろう」そのものが思い込みに他ならず、自らをも欺いた姿勢ではないだろうか。「自分で書いて(言って)自分で納得している。」ということが、何よりも表現する際に注意しなければならないことだ。「国語力」の原点はここにあると言っても過言ではない。翻って、昨日の小欄に記したオンライン授業も対面授業でも同様のことが言える。聴き手側に意識のないオンラインでの一方的な思い込みの垂れ流しでは、受講者の思考を動かすことはできまい。顔を映そうが映さまいが、聴き手の意識に配慮があるか否かが重要である。
高校や大学にいた「ひとりでしゃべっている先生」
愚かなのは自らが気づいていないということだ
誰が読んでもわかるレポート・卒論となるよう指導したいものである。
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