文学はわかりやすいものか?
2020-10-09
説明的に整序された文章実用的説明文などと文学の文体
そして短歌も「わかりやすい」と「説明的」は違う
新学習指導要領「国語」に記された「言語活動」には、校種を問わず文芸的な創作の実践を提起するものが多い。「短歌・俳句・詩・物語」等を創作することによって、「書く」意欲や思考・想像・表現力の開拓を図ろうという訳である。しかし、学校現場ではなかなかその指導は難しいという声を多く耳にする。教員免許更新講習などで「短歌」に関連した講座を実施すると、「児童生徒の作品を添削できるようになるコツを教えて欲しい」という要望が寄せられる。それに対して「コツなどはない」と応えて、「先生方ご自身が詩歌を嗜もうとする意欲」が必要であると説く。また以前に古典の研究学会で「(大学生に)和歌を創作させるのはハードルが高いので、散文(説明文的な)を創らせている」という意見に「ハードルが高い」という認識そのものが違うのではないか?という質問をしたことがある。「和歌」というものへの大きな誤解が、研究者であってもあるということに気づかされた。
ゼミ生が先月の附属中学校での教育実習で和歌を素材として「歌物語を創る」という実践をした。研究授業はその作品を「推敲してわかりやすいものにする」という(授業)過程であった。単元計画や授業そのものは、実習生としては大変に秀逸なものであった。だが事後研究会での助言で僕が問題提起したことは、この生徒らの「歌物語」はむしろ「解釈説明文」ではないかということ。誰にもわかりやすく教科書にある和歌教材の解釈を「いつどこでだれが」を明確にして、「五感で捉えた素材で揺れた心を言語化」するかという背景を文章にしている訳である。「物語」というのであれば、謎めいていたり、一読して不可解であったり、大どんでん返しなど錯綜的なレトリックがあってもよいはずである。我々は映画やドラマには、むしろそんな予想だにしない展開を期待しているであろう。巷間では「わかりやすいもの」「便利なもの」を求める傾向にあって、「謎めいたり」「分かりにくい」ものを忌避する傾向が顕著である。などという議論を、あらためてオンラインゼミで実施した。翻って一例として俵万智さんの短歌を考えてみた。それは『サラダ記念日』から今回出版された『未来のサイズ』まで一貫して誠に「わかりやすい」のであるが、誠に「奥深い」のも確かである。井上ひさしさんがよく語っていた「ふかいことをおもしろく」に通ずる文学的境地が、そこにはあるようだ。
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