丁寧な「料理」のごとく
2020-10-03
季節によってホワイトボードに書かれたメニュー素材・調理・盛り付け・給仕のすべてが丁寧に
深く心酔する料理店のごとく
「料理店」という単語が、いつしか使われなくなっている。宮沢賢治の『注文の多い料理店』は有名であるが、小説の内容からはやや複雑な趣旨も感じざるを得ない。辞書を繰ってみると、「料理」そのものは平安朝からある言葉で「物事を整えおさめること。うまく処理すること。」という意味で、明治・大正の頃までは使用されたようだ。現在でも刑事ドラマなどの悪役が「どう料理するか」などと言えば、人を殺めたりする暴力的な趣旨が伴う。『注文の多い料理店』はこのような語誌を巧みに小説にしたようにも思う。「美味しい料理」に欲を出す荒んだ都会人が、「山猫」なる自然の得体の知れない存在に、反転して「料理され」そうになる物語だ。「食べ物」専用に使用されるようになっても、真のところでは素材たる肉野菜を「料理して”生命”をいただく」という意味で、元の意味合いが反映していると考えるべきなのかもしれない。
週に一回は足繁く通う「料理店」がある。店構えからしてその名がふさわしく、店主の人柄が反映した丁寧な料理、水を汲むことや給仕する動作も気品あるご婦人。まさに小説にでも描きたくなるようなメルヘン的な「料理店」である。調理する洋食の素材が十分に吟味されていて、肉や野菜に「敬意」をもって「料理」している姿勢が窺える。不思議とこの店で肉料理を食べると、格段の活力がつくのだ。Web上などで騒ぎになる「行列のできる・・・」などとは、まったく雰囲気を異にする閑かで穏やかな自然の中の一軒家である。店主とご婦人へは尊敬に値する気持ちを抱くのだが、それは先方が一介の客である僕らに深い「敬意」を抱いてくれているからであろう。この「料理店」のことを考えると、交友関係でも双方の心にいかに「共感と敬意」を持って接することができるかが大切ではないかと思う。時に異質さを感じたとしても、誠意ある「料理」を経て共感できる者こそが「友だち」ということなのだ。
「腹を割って」には「料理」の趣旨がある
通じ合う友だちの電話は自ずと笑いが溢れるものだ
真の「料理」を忘れてしまった食産業のものだけを食べていてはなるまい。
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