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こころとことば、そして音楽

2020-09-17
言の葉そして多彩な花を咲かせる樹木
ならば「幹」は何に当たるであろうか?
そして「感情に直接アクセスする音楽」

教育実習視察で附属中学校を訪れ、ゼミの学生を始め当該学年の国語専攻の学生の授業を参観した。中学校各学年にわたる授業であるが、いずれも詩的言語(和歌・短歌及び連句、またはそれに関連する説明文)に関する単元で「ことばの力」について学ぶ内容であった。『古今和歌集』仮名序に示されたように、「よろづの言の葉」となるその根源に「人の心を種として」という「心詞論」がこの国の歌論・文化論として基本をなしている。ここで肝心なのは、「言葉」はあくまで場面・条件・環境に沿って多様な「言の葉」であるということ。ゆえに「こころ」を直接に表現したものでない場合や、「こころ」の多面性を背景とする点もあるということだ。

実利主義の風潮を強める社会の中で、教育界では「言葉は功利的であるもの」という単一思考に陥っている傾向が否めない。ゆえに「わかりやすい」「誰でも理解する」ものを良しとして、謎めいたもの、逆説的なもの、悲劇的や空想めいたものが否定される傾向にある。だがしかし、実際の社会や人生を考えてみよう、現実には「わかりにくいもの」で溢れている。子どもたちが絵本の空想的な世界が好きなのは、理に適わないものが平然と出現するからだ。それは大人が、映画やドラマにスリルや爽快感を感じる作用と同じである。実習視察でこんなことを考えて、夜は歴史番組で古関裕而さんの作曲が生み出したものについて語り合う内容を観た。レギュラーコメンテーターが「(音楽は)知性を吹っ飛ばして、感情に直接アクセスする」といった趣旨の発言をしていた。戦前に「戦意高揚」に加担してしまった曲も、戦後に平和への祈りを込めた曲も「古関」の共通した訴える「音楽性」がある。換言すれば「詞」によって「曲」の性質は多様な「言の葉」に化ける可能性があるということ。僕らが意識せずとも好きになる「音楽」には、こうした人間への無意識・無自覚な浸透性を伴うものである。では「言葉」と「音楽」の中性的な存在である「やまとうた(和歌短歌)」はどうなるのか?まさに僕に与えられた命題がここにあるようだ。

「言葉」が一元化しないように
政治家が述べる「言葉」をすべて信じられるのか
『刑事コロンボ』では、犯人が自らの言動によって暴かれることが多い。


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