語り手は事実を語っているわけではない
2020-09-12
「事実」とことばで言うがある人の解釈に過ぎない
TVやWebの語り手を鵜呑みにしては・・・
2日前(9月10日付)小欄に、「ボトル内にワインが半分ある」という状況を、「まだ半分ある」と言うか、「もう半分しかない」と言うか、で「語り手」の心情が違うことについて書いた。ボトル内のワインに対する嗜好とか思想とか、その感じ方・考え方によって捉え方は変化する。もとより「ワインが半分ある」という前提となる言説そのものも怪しいかもしれない。「半分」と断言しているが、ワインボトルの形状によってもしかしたら「三分の二」に近いか「三分の一」に近いか?あくまで主観的な「語り手」の見方に過ぎないのではないか。こう考えると「事実」とは何か?と甚だ疑問になる。「話に尾鰭がつく」とはよく言われるが、人に伝える際に面白おかしく話題性を呼ぶために誇張気味に表現するのは、ある意味で文学的創造力なのである
似顔絵やアニメや絵本のファンタジーを考えてみよう。それぞれ「誇張」があるゆえに、子どもでも楽しく味わう根気が継続する。ドラマや映画でも「誇張」があって、それを「本当かよ?」と疑う心が観る意欲を増進させる。何らかの社会的事実を元にしたドラマなどでは、「事実はどうだったのだろう?」と「誇張」との差異が人を惹きつけているのである。「創作」と「事実」とをいかにひき比べるか、その隙間にこそ文学的創造力が潜んでいるものだ。こう考えると「文学を読む」ことは、「事実」と「創造」とを比較して自らを想像的舞台の上で試していくという、壮大で論理的に芝居を観る行為である。翻って、現代の「事実」について考えてみよう。メディアが報じることを鵜呑みにし即座に「事実」だと思い込むことが、いかに危ういことであるかがわかる。様々なメディアの背後には、悪意ある意志が働いていると思うことも昨今は多い。Webニュースの情報も然り、意図を持った「語り手」に語られている「事実」なのだということを意識して、注意深く拒むことを疎かにしてはならない。
ゆえに文学的想像や創造を欠いた教育は危うい
大人になっても絵本を楽しめるこころ
そこに「事実」を的確に捉える論理があることを知るべきである。
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