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力を持つ側の理性

2020-09-03
なお頻発する米国の差別的対応
「暴徒は鎮圧する」と為政者は言うのだが
根本的な原因は分断社会の構造にあり

為政者はたいてい自らの政策の否は喧伝することもなく、これほどの成果が上がったとしか口にしない。むしろ負の部分には意識がいかない、といった方が実態に近いのかもしれないが・・・。政策には必ず正負の両面が伴うはずだが、恐ろしいのはその両面が社会にジワリと浸透してしまうことである。現米国大統領となってから、米国内の様々な「分断」が促進されてしまったことは多くのメディア等が既に伝えている。そんな社会の中で警察官による黒人に対する過剰な対応が、大きな社会問題となっている。しかし根本的な原因に大統領が言及することはなく、「暴徒は鎮圧する」というのみで「暴力的制圧」という偏った方途しか示すこともない。新型コロナ対応が、世界各国の中でも大変に杜撰であったのも偶然ではあるまい。その原因を「ウイルスを撒き散らした国」と批判する図式は、前述したことと類似している。

「暴徒化」し破壊行為や略奪などに走るのは、もちろん大前提として否定されるべきものだ。メディアもその様子だけを喧伝するのだが、実は大勢はしかるべき手段と方法で抗議デモを行っている人々がいるであろうことを考えるべきではないか。鶏か卵かの論理ではないが、暴徒化するから過剰に鎮圧するのか?過剰な暴力的な権力行使があるから暴徒化にまで至るのか?簡単には二分できる問題ではない。しかし、考えるべきは「権力」を持った側こそが理性的に対応してこそ、平和な社会が築けるのではないか。「学校」という社会の中でも必然的に「教師」は、「権力」を持つ存在である。過去には、部活動指導を始めとして「権力」を駆使した暴力的対応も横行した時代もあった。新任教師の頃に多くのものが持つ「舐められてはいけない」という向こうっ気が、「力による制圧」へ向かわせることがないわけではない。だが「学校」とは「理性」とは何かを教え、「知性」を学ぶ場である。個々の児童生徒が「平和」に暮らせる「社会」を目指すのが、教師の役割であることはいうまでもない。

ハワイへの修学旅行引率経験では
同僚教師の公然とした「権力行使」に冷ややかな市民の眼が
あの当時の米国の理性はどこに行ってしまったのであろうか。


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