今また「大学」が問われる時代へ
2020-08-19
「知識の複製が、いつのまにか講義の複製にとってかわり、学生たちは一日中、教室に坐っているだけになる。
彼らは大学における『主役』だったはずなのに、
いつから『立会いを許された』傍聴人になってしまったのだろう。」
(寺山修司『時代のキーワード」より)
大学暦がようやく「定期試験期間」となった。新型コロナ感染拡大により4月開講が見送られ、5月から遠隔講義を原則として進めて来た担当科目も「評価」する時期に漕ぎ着けた。今年ほど「評価」にあたり、様々な思いが巡る年もないだろう。暗中模索で実践して来た「遠隔講義」の「教育効果」が問われているわけで、学生のみならずさながら講義担当者が「試験」を受けるかのような緊張感がある。それでも日常で課して来た毎回の「講義レポート」である程度の感触は掴んでおり、昨年までとの差異はかなり埋められたという思いもある。ただ遠隔講義の方法にもよるが、課題が過剰になり学生が1週間でこなす内容てして適切か否か、履修科目間で調整をしているわけではないので不安も残る。本来は対面講義であっても「教室に居れば出席」ではなく、一定の思考を記す「講義レビュー」の提出を求めていた。「講義外学修時間」は「1単位あたり90分」とすると多くの科目で「180分」ほどの予習復習が不可欠な状況にするのが、適性な科目のあり方であるわけなのだが。
こんなことを考えて、あらためて冒頭の寺山修司の言葉が思い返された。例えば、90分間の講義を担当者が一方的に喋り倒すならば、受講者の思考はどれほど動くのかと思う。まさに「知識の複製」の時間となり、学生は「教室の主役」ではなく「傍聴者」となる。学生の思考を動かすことへ意識があるならば、遠隔講義でも多様な工夫が可能だが、前者のように喋り倒す、または課題を与えるだけ、という双方向性を失った遠隔講義は学生を「傍聴人」どころか「視聴者」に貶めかねない。TV番組の抽選葉書のように投函するもののの「ハズレ」かのごとく何ら返信のない「課題」であるならば、「視聴者」も番組を観る気が失せるであろう。「教育は与えるものではなく、受けとるものである。」という寺山の言葉もあり、「映画のスクリーンの中にも、歌謡曲の一節にも教育者はいるのである。」とも説かれている。となれば例え一方的であっても思考が動く可能性はあるが、そのためには芸術的に高度なコストと質感が求められるということかもしれない。こうした意味で、「遠隔」であっても十分な「教育効果」を上げるため、個々の教員の意識が問われているのだと思う。
寺山修司の時代「大学は死ぬべきだ」という言葉も
内実を問われ続けて50年の大学教育
コロナ禍という予想外のものから真に質が問われ始める皮肉。
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