今年も平和の鐘が鳴る
2020-08-10
「新型コロナウイルス感染症が自分の周囲で広がり始めるまでその怖さに気づかなかったように・・・」
(長崎市田上富久市長の2020年「長崎平和宣言」より)
今年もまた「平和の鐘」が打ち鳴らされ、午前11時02分長崎では平和の深い祈りが捧げられた。新型コロナウイルス感染拡大によって、平和記念式典に一般の人々の参列はなく関係者の方々のみ。しかし長崎の街では至るところで多くの人々が75年前の惨禍で命を落とした人々を哀悼し、その世界に類を見ない凄惨な過ちを二度と繰り返さぬよう祈りを捧げる。ニュース映像でもその光景が報道されたが、その街の人々の意識こそが長崎の「平和の鐘」の響きに含まれているものだ。既に8年前のことだが、初めて平和記念式典に参列した僕は、そんな長崎市内の空気とともに永遠の平和に何ができるかと誓った。生で間近で高校生らが打つ「平和の鐘」、その響きは僕を九州で仕事をさせようとする神の号令でもあった。
75年間という歳月が流れるが、未だに「核兵器廃絶」へ世界的な先導者となり得ていないこの国の情けなさをあらためて思う。もちろん多くの人々が、誠心誠意な努力を続けていることも知っている。だが広島も長崎も、当地に深い当事者意識と祈りと誓いが聳り立つのだが、国は表面的で空虚な言葉を垂れ流して意識の低いその場凌ぎを繰り返すだけだ。あらためてこの9日が、開催されていれば「東京五輪2020」の閉会式当日であると知った。その場は長崎にとって、この上もなく平和宣言を世界に発信する場であったように思う。だが華燭な祭典には、そのような真の平和の意識が伴ったのであろうか?。昨日の市長と国の責任者の言葉を比較すれば、その想像は容易につく。冒頭に記した市長の言葉で言えば、今もなお「その怖さに気づかない」ふりをしている国に、僕らは暮らしている。新型コロナを「戦火」に喩えるならば、また「繰り返される過ち」なのかもしれない。
今更ながら、広島・長崎こそが五輪開催地になるべきでは
「もし核兵器が使われてしまうまで、人類がその脅威に気づかなかったとしたら」
(前掲、田上市長「長崎平和宣言」より)
この比喩に至るだけでも長崎市長こそを政治家と呼ぶのだろう。
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