教えたがりの教師たちー詩歌の授業で何をするか?
2020-07-17
「文法がわからないと古文は読めない」「五七五で季語がある」
「『百人一首』は藤原定家が選んだ・・・」
谷川俊太郎さんが1980年代に「詩歌と教育」に関連して対談した内容を収めた『詩の授業』という書籍で、「学校の先生たちは詩を教えたがりますが、詩は教えるものではなく感じるものです。」といった趣旨の発言をしている。日本を代表する詩人の言葉として、「教師」たるものが深く耳を傾けるべきものと思う。好きな音楽(楽曲)を味わうように、詩はいま現在の自らのこころで受け止めたい。そこに何やら教訓めいた「言いたいこと」を無理やりでっち上げ、子どもたちに押し付ける。まだ自らがでっち上げるならいい方で、指導書にある他人が読んだ「言いたいこと」に縋る荒唐無稽で姑息な方法に鼻息を荒くするより、教師自身が一人の人間として当事者意識を持って詩を読んでいるかが大切ではないか。小中高校を通して児童生徒が「詩歌」を好きにならないのは、概して「詩歌」そのもの原因があるのではなく、多くは教師の授業によって嫌悪感が増すのは「音読活動」と同様である。
「五七五七七で定型詩(だいたいにしてこの「定型」という定義は適切でない)」という「知識」を教えないと短歌は味わえないのか?「五七五で季語がある」ことを告げないと俳句は読めないのか?現行の学習指導要領では、小学校3・4年生で文語の和歌短歌や俳句を学習する。「音読活動」を中心に「親しむ・楽しむ」などを主眼とするもので、決して「妥当な現代語訳」や「季語の判別」などを目指したものではあるまい。しかし、学校現場での多くの授業が「知識」の注入から始めるものが多いようだ。鋳型やきまりを教えないとフィールドで遊ばせることはできない、教師の傲慢な勘違いが子どもたちの自由に感じるこころを制約する。時代はさらに進化して「知識はいつでもどこでも傍にある」はず、授業という貴重な対面機会に「知識の切り売り」をしているなら、教師はAIにその職業としての座を譲ることになるだろう。ましてや教師自身が持つ「知識」が深層に届いたものではなく上滑りしているなら、あまりに子どもたちが可哀想である。まずは「教師」自身が詩歌に真摯に向き合える、そんなことを教職大学院で説いている。
先入観なく詩歌に向き合うこと
小学校1年生でも短歌を創ることができる
「文字」という知識が整わないとできない、わけではなく心の声なのだ。
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