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「0」か「100」より「1から99」を

2020-07-03
「理想」でなければやらないのか
それとも「1」でも可能性があれば挑むか
中身が抜けてしまう思考の影響やいかに?

遠隔講義により以前より学生の課題を綿密に読み、対話的なコメントを深く記すようになった。対面での質疑応答ができないことを補うため、思考の軌道修正やさらに深めるために刺激となる内容を記す必要があると思っている。学生の課題文書の後にまとまったコメントを書く場合が多いが、文の一部にマーカーを施しコメント機能によって挿入をする場合もある。以前はすべてを手書きによりコメントしていたが、遠隔によってデジタル化したことでコメント量は増えたような気がしている。それにしても気になるのは、学生の問題意識の設定である。高等学校での評論文を扱う授業の影響なのか?「0」か「100」かという二項対立の思考が目立つ。

「好感が持てたか?持てないか?」(物語登場人物)「教育効果があるか?ないか?」(教育法)「漢詩文か?和歌か?」(日本文学史)「いろごのみか?一途か?」(文学講義『源氏物語』)「恋心は寄り添っていたか?いないか?」(『伊勢物語』)などという思考方法によって、一方の可能性を排除してしまう思考であるのが悩ましい。バラエティ番組が芸能人を集めての問い掛けにおいて、やはりこの手の思考をあからさまに「真実」を決するがごとくショー的に展開する影響もあるだろうか?行き着くところ、多少の支障や瑕疵があると「0=実行しない」ことを選択してしまう危うい思考となる。思考の方向性や傾向を定める二項対立であるが、要は「0から99までの葛藤」に彷徨することにこそ生きる上での実際的な機微が存在する。「多様な」とは口先だけ、この国の教育は未だ「同調圧力」の中にあることを自覚すべきだろう。

「1から99」のどのあたりを自らは思考しているか
その傾向を自覚し他者との「違い」を見定めること
考えてみれば政治・社会がバラエティ式に「◯」か「✖︎」かを掲げている。


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