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愛好と背離からの志

2020-06-17
教員になろうとした動機は?
「国語」にしようとした要因は?
好きゆえにこの授業では?と背離する心も・・・

教員養成系学部で学生を育てるにあたり、肝要な第一は各自の教育経験を相対化することだと思う。多くの者が小中高校の教育を経験しているが、当然ながらそれは限定された一校で(転校等で複数の場合もあるが)特定の先生からの教育で育って来るわけだ。学習指導要領によって最低限の線は保証されているとはいえ、学級経営も授業方法も出会った先生によって大きく違うのは必然である。となれば自分が経験してきた教育は、一般論の中でどれほどの傾向の位置付けができるかを知る必要がある。だが入学してくる学生に対応すると、自分の教育経験の中にある授業方法などが当然であると捉え、非常に強い固定観念として根付いていることに気づかされる。こうした意味において、この国の「教育効果」は非常に定着率が高いことにもなろう。

ゼミで3年生の課題発掘をしているが(現在はオンライン)、やりたいテーマの中には「(国語)教員志望」の動機などが関係している傾向がある。なぜ「国語が好きなのか?」、大きな動機として素晴らしい「国語の先生」に出逢っている経験があることが少なくない。昨日もそのような話題になって、「僕自身は出会った教員へのアンチテーゼで生きてきた」ような趣旨を学生たちに話した。素晴らしい先生にも出逢ったが、一方で「この授業は改善しなければなるまい」という志を起動させる教員ともたくさん出会ってしまった。それは教員になってからも続き、同僚の教員の授業への姿勢を見るに、一般的な通念から改善しなければ「国語教育の未来」は暗いと思うことがしばしばであった。それゆえに現職教員をしながら大学院へ入学し、研究の道を志たところがある。この日は多くのゼミ生の多くが「暗記・暗唱」を強いる学習活動に大きな嫌悪感を抱いていることがわかった。だがそれは「目的や方法」を改善し学習者の主体性を重視すれば、反転して有効な方法へ可能性を開く。(「日本語で遊ぼう」などの教育番組は有効であったという意見も複数)特に『百人一首』などの和歌の場合、身体化・音声化を繰り返すことで「やまとことば」の美しさを存分に味わうことができる。「目的・方法・効果」について学習者に明示しない授業は、指導者自身もそれが理解できていないことも多い。ゆえに「自分の経験」のみで「音声化」を嫌悪していてはならないということである。

高校の授業から背離したい経験
「反面教師」あっての僕の研究への道
みんなが「正解」の授業をできるわけではないことは心得ておくべき。


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