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分裂体でいいのだよ

2020-06-12
昨日の「私」と今日の「私」
統一体であると考える方が幻想では
『源氏物語』を読みながら学生たちと考えること

学校という”システム”は、とりわけ日本のそれは「統一」を好む。書類上では子どもたちを「所見」として「枠内」に「文章」で記さねばならない性質上、それも当然の捉え方なのかもしれない。ある子どもが今までにない行動や態度を取ると、「あなたがそんなことをするとは思わなかった」などと、大抵はそんな言い方で教師は子どもを諭すことが少なくない。これは「過去」のその子どもと「現在」のその子どもを明らかに比較して、「統一体の枠」からはみ出たことをあげつらっているわけだ。例えば、同じ学校に兄弟姉妹がいるとしよう、場合によると「お姉さん(お兄さん)はこうだった」とか言われて、兄弟姉妹間でさえも「統一体の枠内」として捉えた発言が為されてしまうことがないわけではない。だが、子どもたちはこの類の発言に理由はわからないものの大きな反発心を抱くに違いない。

2年生の専門科目で『源氏物語』を講読している。「光源氏」という主人公と思しき人物の有様・言動を「現代社会」の視点から眺めて、「異常」であるとか「変態」なのだと抵抗感を示す学生も少なくない。平安朝の「いろごのみ」とは何なのか?「母性」や精神分析学・フロイトの「エディプスコンプレックス」などを援用しつつ、「色恋」の深層心理と「王権(平安朝の天皇権力)」の社会的問題などについて広く考えている。「光源氏」が「異様」に学生が読んでしまう要因として、前半に記したような「現代日本社会」のあり方が聊か作用しているのではないか?という思いを描いた。『源氏物語』というテクストそのものが、多様な解釈を許容しつつ再読すればするほど変容し人物像が「分裂体」に読めてしまう矛盾に満ちたものと映る。だが、それはテクストが”ズレ”ているわけではなく、我々が生きる「現代社会」が明治以降の近現代において変質してしまったことを考えるべきではないか。「古典」を読むということは、そんな「現在」に気づく所業でもあるのだ。

教育学部の日本文学専門科目として
古典は「現在」の課題を教えてくれる
「三百六十五面体」と短歌にも詠われている。


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