黙する画面とミュートの抑圧ー「同時双方向」の意義は?
2020-05-16
約20名の受講学生が画面に居並ぶ求めれば「個」として発言するのだが
「同時双方向」を名実ともにするために
昨日に続き「同時双方向」システムの話題。この日は、1年生の講義を初めて「同時双方向」で実施した。4月当初の新入生オリエンテーションや科目登録の確認をするための学修オリエンテーションにて少しは対面で会ってはいるのだが、事実上、個々に顔を合わせるのは初めてである。「文学史」の講義であったために、個々の学生の発言してもらおうと、「上代から中古の古典作品か作者」を挙げながら、何らかのコメントをするという内容を行なった。発問に対する各自の回答とコメントは、通り一辺倒ではなく奥深いものがあってなかなか感心した。何人かの学生は「小中学校で暗誦をした」とコメントしたので、「覚えているところまで言ってみて」というと冒頭の一文ぐらいを披露してくれた。特に「古典」という中でも「寿限無」(上代や中古ではないが、たぶん小学校教科書の「伝統的な言語文化」単元に教材がある)と答えた学生が全てを覚えていたこともあって、全員から拍手喝采という場面もあった。
ところが、僕が「拍手!」と場を盛り上げようとすると、各学生は画面内で手を叩く動作はしているが、音声は黙したままである。ほとんどの学生は、雑音がシステム上に流れてしまうことやハウリング防止に配慮し、システムを「ミュート(消音・TVなどの機器にもある機能)」にしている。たぶん拍手は常に「ミュート解除」にしている僕のもののみが流れたのであろう。その際、直感的に喩えようのない一方通行な孤立感を覚えた。配信している資料に基づいて解説をしている際は、録音した音声のみをWeb配信する「ラジオ講座型」よりは、「顔を見ながら話せる」という利点があるとは思っていた。だがシステムを呼称する際の「同時双方向」に、あまりにも期待を持ち過ぎていたのかもしれない。実際の〈教室〉で身体的・感覚的に人間が集まって講義を行う際に生じる様々な作用が、やはりWeb上では乏しいという虚しさが僕の孤立感の要因であろう。「授業は黙して聞く」という文化を、この時代に至っても日本の教育では醸成しがちである。毎年のことだが、大学に入学してくる新入生には「講義は喋って聞くように」「大学教員の言うことだけを信じてはいけない」などと煽り、学生間の班別対話などを多く取り入れ、「発言できる」=「思考できる」身体に育てようとしている。ところが現在のところ、「Web同時双方向会議システム」は名ばかりで、教員が独壇場で喋り倒すには適した様相を呈している。まだ初回であるゆえに、対面でも相互に親しみは持ちづらかったとは思いながら、講義を終えて対面以上の甚だしい疲労感に襲われた。
対面で教員が何を求めていたかが、皮肉にも欠けたことで露わになる
黙する画面の向こうでミュートの抑圧を受けている学生と
親和的になる方法を考えていきたい。
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