共同幻想と個別の身体ー双方向性オンライン講義に思う
2020-05-15
発言者は誰だ?身体性があると探り合える感覚
学びの「クラス」は共同幻想なのか・・・
授業というものは、教師がどんなに作り込み創意工夫し学習者の特長を活かし時空に存分に適応していても、学習者によって方向性や結果は変わって来るものだ。既に自明のことだが、教師たる授業者がどんなに「上手く」話しても、よい授業になるわけではない。もしこの考え方に基づかないと、オンラインで日本一喋るのが上手いとされる教師が全国一律に授業を動画配信すれば、日本の学力は世界(OECD等の基準)でも突出するはずだ。(だがそんな簡単な問題ではない)だいたいにして、TVに頻繁に出演したがる教師や研究者は胡散臭い。Web会議システムを通じての講義をし始めて、一応の「双方向性」は確保している。だが、画面にグリッドで並ぶ学生たちの顔を見ていて、「学びの共同体」には至っていないことも実感する。PCに見えるのはあくまで「幻想」でしかなく、学生は個別の「自宅」空間にあくまで「個」で存在することを忘れてはならない。
昨年度の国文学関係の講義でグループ対話を多く取り入れた2年生は、「学び合いの共同体」ができていた。その成果は、昨日の小欄に書いた「事前課題」などにも明らかに表れていた。誤解してもらいたくないのは、「学び合い」にするためには、個々の意見が起ち上り対峙し交錯することで、自己の立場を明らかに意識して「思考が変わる」という切磋琢磨が主体的に作用する必要があることだ。「共同(体)」というと特に日本では「同調圧力」が高く、すぐに「一つに」「一丸と」などというワードが求められていくが、それでは成熟した近代を生きる「民」には育たない。「学び合い」には他者への思いやりとともに適切な批評が必要であり、下手な「迎合」を極力避けねばなるまい。Web会議システムでの講義では、どうも身体的に同じ空間にいないことで、他者との「違い」を動物的に判断する知覚が働かないようだ。昨年度の教室では活発に発言した学生たちでも、PC画面の中ではまだ寡黙である。果たしてPCの前に座っている個々の学生は、「学び合いの共同体」を創造できるのだろうか?
カメラ前に置いたホワイトボードも文字は見にくく
思考して欲しいと思う時間の間が持たない
欠けたものを学生たちはどこまで取り戻していくだろうか。
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