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永遠のうちなる「雨の粒ら」

2020-04-25
「遥かよりわれに近づき落ちきたる雨の粒らは永遠を知る」
(伊藤一彦『待ち時間』より)
永遠の宇宙のうちなる地球、2020年をともかく生きる

「なぜこんな世界になってしまったのだろう?」と、誰しもが個々の置かれた厳しい状況の中で考えているのが「今」の地球であろう。20世紀は「戦争」という人為的な惨禍が絶えなかったが、21世紀は様々に形を変えて人類を苦しめる惨禍が断続的に続いている。自然そのものが変容し人類の生活に影響を及ぼすのか、それとも近代化による人為的な行為がやはり自然を変質させ、その見返りを人類自らが被っているのか、それは「サル知恵」に過ぎない人間では、どんなに叡智を集積しても今はわからないことだ。科学は何でも解決する、といった20世紀の誤った全能感のような傲慢に矯正が必要であることを示唆しているのだろうか。いずれにしても僕たちは、この日本の世界の地球の宇宙の「永遠」の中で、今与えられた環境を活かして生きていくしかないのである。

外に飛び出したいような空、今朝もカーテンを開けた妻が「日向の青」を声をあげて讃えた。だが変わらず僕らは「家にいよう」という社会的要請の中で生きている。誰しもが享受できる自然としての空模様にも、様々な物語を読むことができる。冒頭に掲げた伊藤一彦先生の歌は、人間が傘などをさして避けたいと思っている「雨の粒ら」こそが「永遠を知る」と説く。「(雨の粒)ら」とされてることでむしろ雨の一粒一粒が自然の一部であることが読める。僕自身が小学校の時の授業内で初めて行った「研究発表」では、「水の循環」を課題としたことをよく記憶している。雨は大地を潤しまた川となり大海に注ぎ、海水は蒸発し雲となりまた潤いの雨として動物たちの住む地上に降り注ぐ。「雨の粒ら」は個々に想像も絶するほどの壮大な旅を繰り返している。海が生命の源だと云うのは、「粒ら」はその環境にも存在し円環的に「遥か」な空から僕らに降り注ぐのだ。ゆえに地球は「青空」ばかりでは、円環が停止してしまう。「今」まさに比喩的にたいそう厳しい「雨」が、地球上に降りかかる。だがそれも「永遠」のうちなる地球や宇宙の営為なのであろう。

「今」あるもので僕らは何ができるのか?
この永遠の円環を否定しても始まらない
あらためて「文学」や「歴史」の人文知が求められる世を目指さねばなるまい。


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