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研究者教員としての基本姿勢

2020-03-29
この非常時にこそ露見するもの
権力は如何に使用するか?
良き教育は良き研究への自覚から

このような日常性を失った世情の中で、様々な社会的な物事の「正体」が露見して来ているように思う。政治は国民に対して「しっかりやる」という抽象的な立場において物事を「要請」し、最終的に各自の判断に委ねる。発せられる様々な政治側からのメッセージは一方的で、「国民の声」からは乖離した政策や感覚が示されることも少なくない。ましてや3.11以降の社会的な情報の信頼性の揺らぎが、ここに来てさらに拍車をかけて瓦解しているように思うのは「穿った見方」なのだろうか。権力を持った側が自らの立場を利用して、義務がある受容者側に物事を押し付ける構造。政治のみならず社会構造の中において、小中高大を問わない学校種の中で「教員」たる者が決して陥ってはならない基本的な意識であろう。

研究者として教育者として、如何にあるべきか?といった立場が二項対立で語られることがよくある。だがこの二者は、異なる立場のものなのであろうか?研究者として「仮説」を立て「持論」を持つのは原点でもあろう。だがその検証において絶対はなく、常に自らなるべく大きな規模の学会に身を置き、批評・批判の対象にあることを忘れてはならないはずだ。この検証と批評批判を受ける過程を避けてしまうと、それは単なる「思い込み」以外の何物でもない。あくまで研究者としての自らの考え方は、相対的な研究全般の中に置かれていることを強く自覚すべきである。この自覚があれば学生に対する際の中立公平や「持論」の押し付けが、如何に卑劣なことかが自明であるはずだ。「教育」は実は「良き研究」に支えられている。それは「自らが学ぶ」姿勢に妥協しない「研究」に向き合っていることを前提に成り立つのである。

究極の選択で何を「露見」するか?
政治家や研究者が陥りやすき過ちのある
面と向き合ったものを敬愛せよ


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