「迎へか行かむ待ちにか待たむ」相聞歌のこころ
2020-03-19
「君が行き日(け)長くなりぬ山尋ね迎へか行かむま待ちにか待たむ」(『万葉集』巻二・磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌 より)
人への思いやり、そして愛すること
冒頭に記したのは『万葉集』巻二・巻頭に置かれた相聞歌である。旅先から長く帰らない仁徳天皇を思い慕い磐姫皇后が作ったとされる四首のうちの最初の歌。もっとも『万葉集』中で実在の人物として確認できるのは三十四代・舒明天皇であり、磐姫皇后は神話の時代の存在と考えられ、『古事記』『日本書紀』にもその名が見える。よってこの歌は、磐姫皇后をモデルに後人の手による代作的なものとするのが定説であるが、それにしても伴侶を思う哀切な相聞のこころを抒べた秀作といえよう。心を寄せる人がいづこかへ出向き、なかなか会えないのは辛く苦しいものである。ならば、「迎へか行かむ」がいいのか?それとも「待ちにか待たむ」がいいのか?愛するこころは葛藤で逡巡するのである。
思い人へのこころは、あらゆる日常を支えてくれる貴重なものだ。特に多様なストレスの多い現代社会では磐姫皇后が想定された古代とも違い、外部からの圧迫を共有し語り合うことでお互いのこころを緩和することも必要ではないかと思う。僕の恩師はそんな伴侶のことを、「山の神」だと喩えて語る。自然神が多く存在するとされる民間伝承では、「山の神」は女性であるとされる。伝承は多種多様なものであるが、その霊力をもって様々な加護を人々にもたらせる存在だ。思い慕うこころは、相手のすべてを肯定し固く信じて疑わない、それを深いところで共有してこそ、「愛」が言動として実感できる。磐姫皇后の歌が、「山尋ね」とするのも偶然ではあるまい。「迎へ」という能動的な実行動に出た方がよいのか?それとも「待ち」という苦境の中で力を尽くした方が相方のためになるか?その双方の気持ちが偶然にも合致を得た時、それが「思いやり」「愛」が結実した瞬間である。
連絡をしようか、しまいか?
偶然にも双方の思いが合致したとき
まさに相聞のこころが着地する
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