短歌は時間を遡及する
2020-03-07
「待つなどと吾が講ずるを聴く母の眼に孕りし日の四畳半」(『心の花』2020年3月号掲載・自詠作品)
あの人が集まれた年末にことばで遡及する
用向きがあって街に出たので、年末に「まちなか文化堂」の出前講義でお世話になった本屋の店長さんにご挨拶に伺った。「もうお店で日時を決めてイベント開催などは全くできない状況です」と哀しげな言葉が印象的であった。それなりにお客さんはいるものの、金曜日の夜にしては人影まばらである。年末に講義した会場を見てみると、何だか非常に懐かしい気持ちから、ある種の虚しさに襲われ涙腺が緩んだ。あの「人々が集まってくれた街」が今や喪われてしまった。その足でスポーツジムに向かうと、駐車場に車があまりに少なくおかしい?と思い、妻が車から玄関に行くと「当面の休館」の掲示があった。都市ほど過密でない宮崎の街中でも、既に日常生活が喪われつつある。ましてや飲食店などのことを思うと、馴染みのお店の旦那さんの顔などが心に浮かび辛い思いを抱きつつ帰宅した。
こんな生活の状況下でも、変わらず届くのが所属する結社誌『心の花』である。編集に携わっている方々への感謝とともに、普段以上にそこに載っている様々な短歌が恋しく愛しく思えるのは僕だけだろうか。自らの短歌が5首ほど選歌され掲載されているが、そのうち一首が小欄冒頭に記したものである。前述した「まちなか文化堂」には、妻のお母さんやお姉さんに姪っ子、そして僕の両親も足を運んでくれた。当該の一首は、その際の講義を「聴く母の眼」に焦点を当てた作である。「待つ」ということは、人間が生きる上で根源的なテーマ。僕自身の命が宿ったことを知った母は、当時の家の四畳半の部屋でどんな思いで僕が産まれるのを「待った」のだろうか。短歌というのはたった三十一文字でありながら、僕が生命をいただいた時間までも、そして年末の「まちなか」講義の時間へと思いを馳せさせてくれる。この何に怒りを向けてよいのかわからぬ不条理な世情で、やはり短歌の時間的遡及力には大いに癒されるものである。
「聴くことは待つことにして機長より『強い揺れ』など告げられてをり」
(同『心の花』2020年3月号掲載・自詠作品)
この世界を激震させている感染症から、僕たちはいつ安定した飛行に戻れるのだろう?
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