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境や枠組に護られるわけではない

2020-03-06
県ごとの感染者数の色別表示
国ごとも同様に赤玉の大きさによる表示も
どんな場合でも当事者意識を持ちつつ

既に病原体には接している、という意識を常に持つべきなのだろう。もともと日常生活での手洗いの励行は怠らなかったが、ここのところ手が荒れてしまうほどの回数を洗うようにしている。だがそれで手が赤切れになったりするのも、本末転倒の危険性がある。感染症と闘う「清潔」「衛生」とは、どんな状態がよいのかと考えさせられる。一昨日の夜、地元TV局のニュース放映中に速報が入り、宮崎県内でも初の陽性が確認された。メディアの報道はいづこの都道府県で何人かということを色分けし、感染し陽性反応が確認されると都道府県知事が会見を開いて発表している。感染症の性質として「地域性」が高いのは百も承知であるが(「クラスター(集団感染)」の発生自体が「地域性」とも考えられる)、どこかで「自分の住む県はまだ出ていない」という根拠のない安堵感を持っていた己を省みたりもする。

だがしかし、県内で陽性が確認されたことと、病原体が存在するか否かは別問題ではないかと思っていた部分もある。生活の様々な局面で、既に病原体に接しているという緊迫感をもって手洗いを励行する意識である。これほどに網の目のように、これほどに高速化した交通網を整備してきた近現代化においては、境や枠組によって感染症を防御できるわけはないと考える方が穏当ではないか。約10年前の「新型インフルエンザ」の際でもまさにそうであったが、「水際対策」に執心することの虚しさを禁じ得ない。その整備された流通の恩恵に、我々の日常は支えられているという皮肉。今回もトイレットペーパー不足のデマによる買い占めという愚行は、病原体の流通は何としてでも阻止したい気持ちで、紙商品の流通は絶え間なく順調であることを願う矛盾に満ちた庶民の行動に見える。元来が人為的に引かれた「県境」「国境」がそこにあるだけで、我々はその「越境」の恩恵の中で生きている。ゆえに「境」や「枠組」が僕らを防御してくれる、という発想自体が前近代的とも言えるのではないだろうか。

今あかときの鐘が響く
「この世間」に生きている自分
政治・社会そして近現代の矛盾が次々と暴かれている。


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