専門家はいかに社会で生きるか
2020-02-19
「専門家に聞きました」報道でそのように呼ばれたことが
社会で生きて働く「専門」であるべきだが
一昨年のことであったか、「読書の秋特集」で地元TV局の取材を研究室で受けたことがある。夕方のニュースで放映になって観ると、「読書はなぜ大事か?専門家に聞きました」と紹介されCMを挟み、特集の内容が映し出された。普段からなんとはなしに他者が紹介される際に聞いていたが、己に対して使用されると我が身が「専門家」なのだと改めて自覚した。だが厳密に云うと「読書」のみの専門ではなく、「和歌短歌」を中心として「国語教育」の専門家というのが正確な紹介ではある。それにしても大切なのは、自らのコメントがニュースに流れて、社会で(少なくとも放映される宮崎県内で)生きたものとして働くものであるべきだと襟を正したことだ。研究は「蛸壺」の中にあっても針の先ほどの成果があれば認められる時代とは、大きく異なって来たことを考えさせられた。研究者であり教育者である僕らの仕事においても、社会性が求められるのは紛れもない社会の要請であろう。
新型コロナの国内感染が拡大する中、報道に様々な「専門家」たる医師や研究者たちが出演しコメントしている。その分野に素人である僕らでも、考え方が妥当かどうかあれこれとコメント内容によっては考えさせられる。中には「この専門家の意見を採用すれば現状のような感染拡大にはならかなったのでは」と思わせるものもある。政府の方針や行政において、十分に「専門家」の意見が反映されているのかと甚だ疑問である。翻ってテレビでなら「理屈」として、「言うが易し」なのではないかと思うこともある。それは研究者が往々にして実践を伴わない「空論」を述べやすい傾向にあることを、痛いほど知っている感覚に拠るものだ。大学院修士に在学時に、「発達障害論」の先生が「僕らは教育学に携わりながら、社会の問題にどれほど対応しているのか?」と問題提起したことが忘れられない。その先生は立派な研究者であり現場での実践家でもあり、「専門家」として社会的に生きる存在であることを体現して教えてくれた。行政などといかに対話して社会に貢献していくか?教師を養成している僕らにとっても、「専門家」として待った無しの現実があることを忘れてはなるまい。
「社会性」を持ち「空論」を吐かず
研究者であり実践家であるためには
文学も大学も社会的価値が問われている時代である。
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