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「自分の眼で現実を見る」ちから

2020-01-29
短歌という形式を選ぶ意味
「他人の借物ではなく」
志・心を種として・有のままに写す

なぜ「短歌」という形式を選ぶのだろう?「俳句」と混同されると、不思議な抵抗感を覚えるのはなぜだろう?そしてまた馴染まない人々には、なぜ敷居が高いと思われてしまうのだろう?小中高とあらゆる校種で必須の教材ながら、「国語教師」で扱うことに消極的な人々も少なくない。だがしかし、日本語日本文化の形成に漢文が必要不可欠であったゆえに教材とされているのと同等かそれ以上の理由で、「短歌」の学びによって1300年の文化の命脈の上に身を置くことになる。このように述べればそれに抵抗感を覚える輩も少なくなく、ときに研究者であっても偏見視する度量しか持ち合わせない場合さえある。元を正せば「惚れた腫れた」の問題かもしれないのだが、文学そのものの価値が社会的に貶められている今こそ、声を大にして「短歌」を熱く語りたい。

日本文学史の上で歌論を辿れば、やはり『古今和歌集仮名序』の「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」をまずは挙げねばなるまい。その根本的な発想は、中国の詩論「詩は志を述べる」に由来する。何よりは人間が人間たる存在価値ともいえる「心を抒べる」ものが「歌(やまとうた)」であるという点を押さえておきたい。この平安朝からの和歌としての伝統は、中世の爛熟期を経て江戸時代まで続く。明治になって正岡子規による短歌革新運動が為され、「写実・写生」が唱えられることになる。以後、様々な近代化の波に「短歌」は耐え得る詩型なのかという問題意識が繰り返されたが、「他人の借物ではなしに自分の眼で現実を見るということ」を肝要とすることを佐藤佐太郎などが述べ、(大雑把であるが)塚本邦雄が前衛短歌でその衝撃力を古典を存分に踏まえて作品化・理論化したことで、韻律と言葉のちからによる己の存在証明を日常の中に見出す詩型が自覚され今に到るのであろう。この命脈を軽んじる者に、少なくとも日本文化を語る資格はないだろう。ゆえに迷うことなく「短歌」を熱く推したいのである。

「現実」を見るための日常
「短歌」を詠もうという意識が生き方を変える
常に新しい己を言葉のちからで築くのである。


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