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短歌と俳句は似て非なるもの

2020-01-24
「自分の眼で現実を見るということ」
「やまとうたは人の心を種として」
「認識」か「抒情」か・・・

短歌に携わる身として歌を「一句」と一般の方に言われると、大変に微妙な心境になる。学生が講義などでそのように言うと、執拗に訂正するのが常だ。挙げ句の果てに昨日は、俳句(俳諧)を扱っているにも関わらず、「この歌は」と繰り返す学生がいた。短歌や俳句を「この詩は」と呼ばれるのも不本意で、「この歌」「この句」と繊細な語彙を持ちたい。短歌を「一首」と数えるのは、「首」に「申し上げる」と言う漢字としての語義(「自首」がその一例)があり「一つ心を申し上げます」というのが和歌短歌であるということができる。教員を目指す学生にはこの意味を教え、俳句の方は「一つ句切れて響き合います」と教える。俳句は「切れ字」(「や」「かな」「けり」などの語)を活かし感情を交えず、切断された二つの世界観が、十七文字の中で矛盾や対立を生じつつ響きあい鋭い「認識」の切り口を示すものである意味を込めた「一句」と認識してもらう。

「認識」という意味では、短歌も俳句も「自分の眼で現実を見る」のは同じであろう。「認識」は「発見」でもあり、新たなものの見方や感じ方を示すものである。TVのバラエティー番組で俳句が盛んに行われるのも、「写真」を提示すれば「認識・発見」を解釈し提示できるからであろう。「写メ」「インスタ」などのスマホを利用した手軽な写真が身近になった現在、その意識は「認識の文学」である俳句に通ずる。ところが短歌は、動詞による動きと助動詞・助詞の微妙な言語の連接に生じる光と陰により「人(私)の心」を高らかに抒べる。好きな相手に「恋心」を伝え、命失いし親愛なる人へ「哀悼」の意を表し、季節ごとの繊細な「発見」による「心の揺れ」を表現して1300年の歴史を持つのが「やまとうた」である。もちろん歴史が長いゆえに歌が優位である、と押し付けるわけではない。文学史的に同根から発展・派生・変容してきた和歌短歌と俳諧(俳句)において、相互の「切り口」をまさに繊細に発見できる授業を現場の先生方が示してもらいたい。という願いを込めて「(中近世)文学史」の講義を行なっている。

暗記ではなく「認識」高き文学史を
短歌が短歌たる所以を明らかに説明できること
「一首」と「一句」の違いに響く日本短詩系の歴史は奥深い。


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