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旅人と我が名よばれむー人生は旅

2020-01-10
「どうせ生まれたからにゃ
 命の限り旅を続けよう」
(サザンオールスターズ『東京VICTORY』より)

文学史の講義も後期大詰めで、芭蕉の俳諧から紀行文を扱う回となった。中学校教科書教材にもなる『おくのほそ道』冒頭部分と『笈の小文』冒頭部分の双方を読んで、芭蕉の旅への考え方を視点を定めて論評するという班活動を実施した。いずれも「旅」への思いや芸術としての俳諧について、漢籍典拠を交えながら滑らかな文体で語る名文であるように思う。『笈の小文』では「西行・宗祇・雪舟・利休」といった諸道の芸術的大家の名を連ね、その延長上に自らの俳諧もあるといった矜持を示しつつ、本日の標題とした「旅人と我が名よばれむ初時雨」の句が記される。他者視点から自らが「旅人」と呼ばれると受け止める「情」の部分と、秋から冬にかけての冷たく降る「初時雨」の「景」を組み合わせ、自らの風雅な芸術観を述べている。

『おくのほそ道』では、「月日は百代の過客にして」と唐の詩人・李白の文章を引きつつ書き出される文において、あらゆるものが「旅人」なのだと普遍的な主張を述べる。人も時間も「永遠の旅人」であり、物理的にひとところにいたとしても時間の流れに押され漂うわけである。旅の車窓には様々な景色が見えるが、その具体的な出逢いを言葉に残そうとするのが「俳句」ということになろう。比較的、旧式な物言いをするならば「二句一章」の中に、人生の「景色」とその際の「情」を重ね合わせ、その「即かず離れず」という微妙なところに表現の深みを求めた文芸といえるであろう。もちろん「景情」の関係は、歌においても古典和歌以来の一つの定番でもある。

日々が旅として「景」と出逢う
「情」はどのように反応するであろうか
あらためて詩歌の抒情性を根本から考えてみたい。


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