ことばのDNAー古典教育の動機付け
2020-01-08
祖母は旧仮名遣いで「てふてふが飛ぶようになった」と書いていた
4代〜5代を遡れば江戸時代に至る距離感
「専門教育入門セミナー」という基礎科目をオムニバス(複数教員担当)で4回受け持った。若山牧水や俵万智さんなどの近現代短歌をはじめ、歌の表現性や文学性などについて「批評」するとはどいうことかを中心に進めて来たが、最終回となるこの日は「古典(主に和歌)を読む意義はあるのか?」といったテーマを受講者とともに考えた。高校を卒業して間もない大学1年生にとって、高校での古典学習の記憶として執拗な暗記中心の文法学習への嫌悪を示す者も少なくない。今も多くの高校「古典」の授業では、「文法を知らないと古文が読めない」という考え方の元で入試対策と銘打ち品詞分解を中心とした文法的精読という方法から抜け出せない場合が多いようだ。だが問題なのは、学習者が自ら主体的に「古文が読んでみたい」という意欲を醸成することであって、文法学習はその後に置くことで、おおらかに多読するような学習が必要ではないかと常々思っている。
最近発刊されたある雑誌に寄稿した内容に記したのだが、自らの細胞としてのDNAと同様に我々の身体には「ことばのDNA」が埋め込まれている。生まれて初めて「ことば」を習得するのは、紛れもなく母親からであろう。その「母親」も「祖母」から「ことば」を習得することを考えて、代々遡ると「古典」が最も近く存在していた江戸時代まで、学生からして少なくとも4代〜5代を遡れば到達する。僕が明治18年生まれの若山牧水のお孫さんと懇意にすることを紹介すると学生はその具体性にハッとするようである。さらに僕が幼少の頃(ひらがなを習う小学校1年生か2年生だったと思うが)に新潟の母方の祖母から「雪も溶けてふてふが飛ぶようになった」という文面の手紙をもらったことを例に出す。「テフテフ」(文字通り発音し)という異様な生き物が新潟にはいるのか?と不思議に思い母に尋ねると「それはチョウチョウと読む」と教わった。僕の最初の「歴史的仮名遣い」体験である。「古典」はそう遠い時代のことではない、学生たちも実感を持って感得してくれる具体例の一つである。
「ことば」は重ねられて代々継承されていく
自らの細胞の中に潜んでいいる「ことばのDNA」
「伝統的言語文化」を空虚な妄想で学ばないために。
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