国立大学法人教育学部
2019-12-07
地域の教育に貢献教員養成に専念
多様な子どもたち・多様な教師
自分自身が高校2年生ぐらいの頃、どんな進路選択をしようとしていたかをよく思い返すことがある。自営業に励む親からはあまり推奨されなかった「教員」になりたくなってしまい、その「矛盾」を常に感じながらも、「やりたいこと」を炙り出していたような精神作用があった。たとえ「教員」になるとしても、視野の広い了見が狭くない人物を目指したいと思っていた。その秋頃には首都圏の(当時は)国立大学教育学部のキャンパスを訪れてみた。比較的広大な敷地に低層な建物が並び、学生の人口密度は決して高くない雰囲気が漂っていた。その際に感じたことは、他学部があって「教育学部」のみの視野で閉鎖的にならない環境が望ましいということである。結果的に受験では私立大学文学部志望となり、広い「了見」を叶えることになった。
「教師こそ多様で社会的に開いた存在」であるべきだと思う。よく漱石の『坊っちゃん』に描かれる学校の教師の多様さこそ、「近代」が辿り着いた教育のあり様だと言われることがある。個々の「教師」が多様な受け止め方をしてくれることで、子どもたちは安心感を得る。だが、僕自身も体験してきた学校教育は、規則の中で一律に子どもたちに対応することを求めていた。現在、不登校をはじめ多くの課題が教育現場にあるが、それらはやはり一様な子どもたちであることを強制し、一定の鋳型の中に嵌め込もうとする教育が原因となっていることが多いように思う。国際的に「読解力」が低下したことも、多様な視点を持つことが建前であることを露見させているのではないか。さて、地域の教員養成を担う国立大学法人教育学部は、この現在をいかに生きたらよいか?そんな命題をあらためて噛みしめる日々である。
僕自身が育てられた環境を胸に
いまどんな学生たちを育てればよいのだろう
九州沖縄地区の教育学部に与えられた使命やいかに。
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