生きる土地を愛してる
2019-12-01
宮崎が大好き生まれ故郷の田端も
そして心のふるさと都の西北も
なぜ此処に住んでいるか?その土地を選んでいるのか?生まれ出づる宿縁のように自らが選びとれない場合もあれば、強烈な意志で選びとって住む場合もある。意志なき必然の土地に備わっていた環境は、次第に育つ過程で自らの意志に大きな影響を及ぼすこともある。僕の生まれ故郷である東京田端は、芥川龍之介や菊池寛などの小説家、萩原朔太郎や室生犀星などの詩人、そして若山牧水とも親交のあった太田水穂などの歌人らが好んで居住した「文士村」であった。作家・近藤富枝さんの『田端文士村』という書籍を小学校の時に読んで、芥川邸の門構えを見たときの思いは今も忘れない。居住ではないが正岡子規の墓も田端にあり、小学校の時に友だちを誘って墓参に行ったことがある。NHK「坂の上の雲」を観ていると、子規の墓参に妹や秋山真之が行く場面があったが、それなりに現地を想定しているなと納得したことがある。
僕が「文学」を志したのは、間違いなく「田端」という環境のおかげである。次に僕自身の意志で選び取った故郷は、「都の西北・早稲田大学」である。当初は高校の先生の助言もあって地方も含めた国立大学を志望していたが、どうしても「早稲田」でなくてはならない、と心に誓いを立てて受験勉強に挑み、何とかその志望を叶えることができた。学部4年間、教員となって10年後に修士に入学し仕事を持ちながら3年間(通常2年+1年)、そして博士後期過程満期に至るまで6年間と、合計で13年間は学籍があった。その後は7年間は非常勤講師でお世話になり、再び2年間を加えて9年間は教壇にも立たせてもらった。僕が選び取らなければならなかった土地(大学)が「早稲田」であることは、宮崎に移住して尚一層、その宿縁と必然性と恩恵を深く感じるようになった。歌人・伊藤一彦先生との出逢い、また同学部同専修の先輩である俵万智さんとの再会、もしかすると僕は田端に生まれた時点から、牧水研究をする縁があり、早稲田に進学した時点から宮崎に住む必然性があったのかもしれないと思っている。
土地を愛し土地から学ぶ
東京下町・田端はなぜ文士村となったのか?
様々に探りたかった問題意識が、いま宮崎で繋がり始めている。
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