風の歌あれこれー宮崎大学短歌会歌会
2019-10-11
「わがやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも」(『万葉集』巻19・4291・大伴家持)
「風」「風邪」などの季節かも
後期になって初の宮崎大学短歌会歌会が開催された。自由詠であったが、季節柄なのか偶々「風」や「風邪」の歌が複数あって、やはり自然と短歌は切り離せないものかと実感した。一昨日ぐらいから急速に涼しいというか寒さを感じる気温となって、人間としての肌感覚の敏感さも知らされる日々である。あらためて「風」を辞書で引いてみると、その語史の長さと多義性には目を見張るものがある。古代においても冒頭の『万葉集』家持の著名な歌があり、『古事記』にも用例が見える。いやむしろ古代の方が余計な騒音はなく、身近な「風」の音を聴くには適していた環境だったのかもしれない。本日の趣旨と家持の歌ではいささか季節の上でズレるかもしれないが、「いささ群竹(わずかな群竹)と(神聖の笹)と解に二説あり」に「吹く風の音」を聴いてみるとその「幽かな」ものを繊細に聴き取る古代人の聴覚をあらためて考えさせられる。
『古今和歌集』の秋巻頭歌は、これも著名な「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかえぬる」(169・藤原敏行)である。立秋になると吹くとされていた「涼風」によって秋の到来を聴覚的に知覚したという歌だ。漢籍由来の観念的な着想に発しているが、やはり自然を耳で聴こうとしている歌であることには注意したい。詩的な「宇宙観」の中で、聴覚そのものが「生命」との関係性をつなぐ大きな鍵となっている。「音」は「声」にも通じて、まさに「命」を確かめる端緒となるものだろう。この寒さの中で秋草の中の虫たちの声も、次第に衰えてきているようにも思う。「音」と季節の中に生きている自己の存在感、風邪を引いたり、自他が発する声の過剰さに驚いたりと、学生たちの歌もこうした宇宙観の中で読むことができる。日常生活の歌でありながら、やはり『万葉集』以来の1300年の歴史の上に身を置くことが、歌を創ることなのだと強く意識したいと思う。
実感・描写・詠者の立ち位置
気温の変化に敏感であること
蜜柑の香り高き歌会の卓上でもあった。
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