「聴く」ことから始まる
2019-10-07
「聴くときの主体は相手です。」「相手と自分との関係を対等に考える」
「みんなが幸福になるための道」(伊藤一彦『歌が照らす』序に代えて)
伊藤一彦先生の新刊エッセー集『歌が照らす』(本阿弥書店・2019年9月12日刊)が宮崎日日新聞読書欄で取り上げられ、歌人・松村由利子による「自然と人間をテーマに」という題での評が掲載されていた。「数々の引用歌は、優れた歌人たちの豊かな自然観、宇宙観を見せてくれる。」とし「懇切な歌の鑑賞は、何より実作の手引きとなる。」とした同書の魅力の指摘は実に的確である。小欄冒頭には同書から「声を聴く 言葉を聴くー序に代えて」の一節を引用したが、松村も「作者は牧水に倣い、人や自然の言葉を『聴く』大切さを説く。」として同書から(牧水の歌は)「自分以外のいのちを認める営み」なのだと引用している。
「聴く」ことと短歌の関係としてぜひ覚書としておきたいのは、同書「歌を読む作る視座、読む視座」の章にある佐佐木幸綱の評論「人間の声」に言及した指摘である。佐佐木の「短歌を単なる定型詩としてではなく、伝統詩として選ぼう」という壮大な短歌への視座に言及し、その「伝統詩」について、「千三百年の数知れぬ先人たちの声がこめられているのが短歌であり、その言葉と韻律つまり『呼吸』に畏怖を感じるのが短歌なのだと言っている。」と伊藤先生の咀嚼した指摘には、あらためて深く納得させられる。この部分の指摘構造そのものが、「心の花」の先輩歌人である佐佐木幸綱の「呼吸」を深く「聴く」伊藤一彦の繊細な耳を考えさせられ、その継承そのものが千三百年の一部であることへの「畏怖」を僕は覚えるのである。
奇しくも「牧水の耳」「牧水の声」と題した評論を僕は書いた
「聴く」ことこそ混沌としたこの時代を生き抜く鍵であろう
短歌に携わらない人にも、人生の指針としてぜひ一読いただきたい好著である。
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