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「神経質にくづれゐにけり」こころの遊び

2019-09-21
「わが顔は酒にくづれつ友がかほは神経質にくづれゐにけり」(牧水)
生きる楽しみとは何か?
こころの遊びがあってこそ・・・

若山牧水研究の第一人者である伊藤一彦氏は、その著書の中で「牧水の二面性」を指摘している。海を求めたかと思えば山を愛し、家族を愛し尽くすのかと思えばひとり旅に出てしまう。この心性というものは、何も特別なことではないように思う。現代社会ではある程度の秩序と規律を重んじるために、学校教育では「一貫した態度」をよしと教える。昨日と違った行動をすると子どもらは「今日はいつもと違いますね」と先生に叱責される。だが、長い人生を生きているとわかってくるが、それほどに人間は「一貫」したものではない。いつもこころの中に葛藤があり、相反するものを求めている存在と考えた方が実情に近いと思う。中学校2年生の国語教科書教材で50年以上も掲載され続けている『走れメロス』の教材価値は、これも学校の授業実践では触れられないが、葛藤深き二面性のどちらも肯定することに大きな価値があるのではないか。

冒頭の牧水の歌は酒に浸りくづれた顔の自分と、神経質に歪んだ顔である友を対比した素朴な歌である。もちろん大酒飲み牧水の自慢のように読まれることが多いだろうが、友の顔のあり様に自分の二面性を覗き見るという読み方もできるのではないかと思う。若き日の苦悩深き恋愛でそのこころを疲弊させた牧水、純朴なこころは人間不信となり「砒素」も所持してことを思わせる歌もある。人間は誰しも神経質な面を持ち得ており、極度な否定的経験からこころに大きな傷を負うことも少なくない。牧水の人生を考えれば結果論的には、酒によって身体を蝕んだのは確かだが、神経質から脱して生きる力をもらうためにも酒が必要であったようにも思う。自らを顧みて思うに、研究者などという職業は繊細で神経質な面を持ち合わせなくては成し得ない面がある。だが日常的に家族などに接する際に、こうした心性が溢れ出るのはいかがなものかと自省する。人生のハンドルは右か左かどちらかではない、ブレーキを含めて遊びがないとその運転は安定しないのである。

生きるための様々なモード変換
偏りこそが危うさへの道である
「研究」や「授業」が「楽しい」と言えるのもこころの遊びありてこそ。


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