牧水の母
2019-09-16
その名「マキ」を取って雅号に父が不在の間に縁側で「コトッ」と産まれる
沼津で一緒に暮らそうという牧水の提案も・・・
若山牧水は祖父・健海に父・立蔵と続く医師の家に、三人の姉を持ち待望の長男として産まれた。母の出産に当たっては、朝方に父が不在の際に急に産気づいて家の縁側で「コトッ」と産まれたのだと姉らに聞かされていたらしい。どうやら医師ながら放蕩な父は、四番目の子どもの誕生に期待を寄せていなかったかのようだ。だが産まれるや男の子となると、後継ぎができたと大喜びとなったらしい。だが、知っての通り牧水は医師を継ぐどころか、故郷を離れ旧制延岡中学校を経て短歌の道を志し東京へと出て行ってしまう。牧水の青春の選択においても、想像するに父との数限りない精神的な諍いが絶えなかったのではないだろうか。明治45年となって「父危篤」の報を受け牧水が帰郷した際には、親族や村の者たちから「長男・牧水は村に留まるように」という空気の中で約7ヶ月間、生家に籠って牧水は悩み続けた。
幼少の頃の牧水は山谷で遊ぶことが多く、友だちといるより独りを好んだようだ。唯一の友だちといえば母・マキ、と言えるほどであったと云う。その後も牧水の人生を通して母への敬慕は終始変わらず、年老いた母を沼津でともに暮らそうと盛んに進言していたらしい。東京そして沼津と関東方面に活動拠点を定めた牧水にとって、母のいる宮崎の山の奥なる渓谷の村は常に頭から離れなかったであろう。両親と遠距離を隔てて生きるということは、特に老年となった際に子どもとして様々な心配が尽きないことを牧水は痛いほど経験した。だが母・マキは、東郷村坪谷を離れようとはしなかった。江戸時代末の生まれである母は、生まれた育ち結婚し子を育てた土地から容易に離れる気持ちにはなれなかったようだ。牧水にとって東郷村坪谷は母の胎内のような土地でもあり、母の面影とともに生涯にわたって敬慕する故郷なのであった。
心の底から思い出す故郷もあり
新たにあくがれて創る故郷もある
親とともに歩める人生の巡り合わせには感謝せねばならない。
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