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なぜうたうのか、なにをうたうのか

2019-09-12
角川『短歌』特集「平成」
自分は「なぜ」と「なにを」にどう応えているか
必然的に「親」を詠うことが多いのは・・・

角川『短歌』9月号の「平成」回顧特集は、この30年間の短歌の潮流が知れて興味深い。30年前の様々な短歌評論に記されたことを元に、現代の論者がテーマごとに語っている。その中でも、佐佐木幸綱の「なぜうたうのか、何をうたうのか」という評論は機会あるごとに読んでいたものであったが、あらためて谷岡亜紀の評によって現代の短歌の行方を考える契機となるものだ。果たして自分が短歌をよんでいて意味はあるか?この形式にのってうたう以上、1300年の歴史の上に身を置く覚悟があるか?例えば牧水は没後91年を経過してもなお、力強く生き生きとした息遣いが読めるが、果たして自分はどうなのだろうか?生活の中でのささやかな素材を活かすためにも、なにをうたうか、という立ち位置が大変に重要であると再認識できる。

今月号『心の花』9月号に掲載いただいた僕の歌に「雨雲の厚み憂える空港で父のみ黒豚カツサンド喰む」という一首がある。6月の上旬に両親が宮崎から東京へと帰る際に、空港のカフェでの事実を素材にした歌である。梅雨時でやや航路の天候が心配される中、母と僕は中途半端な時間帯でお茶にしたが父だけが「カツサンド」を注文して、その突拍子もない感情に取材したものだ。「黒豚」であったかどうかは定かでないが、「厚み」を求めたい「カツサンド」と、心配のタネである「雨雲」へ思いの方向性の違いが妙に気になった。この事例に象徴されるように、長年育ててくれた親に対して、年代とともに感覚の齟齬が生まれる。それもまた必然であるのだが、「親子とはこういうものだ」というテーマは、僕にとってとても大きいことをあらためて自覚できた。『心の花』「選歌ルーム」では、他の連作歌も含めてのことだが「ユーモラスでもある。」と評していただいた。両親なくして、この命なし。この人間の存在の必然を現代を舞台にどう描こうか?と深く考える日々が訪れた。

なぜ生きるのか、なにに向かうのか
人として、人が好きで、人とかかわって
両親を歌に詠める幸せを噛み締めて生きる。


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