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苛立たないで自分は自分

2019-09-07
他人の眼を過剰に気にして
自分がコントロールできなくなるとき
恥や外聞ではなく今此処の自分をありのままで

自動車免許を取り立ての大学生の頃、父の乗用車を借りて運転したい気持ちがはやった。一般の道路走行は十分慎重にこなせたが、問題は最終的な車庫入れであった。自らが操る乗用車の車両感覚がなく、ハンドルをどちらに切れば真っ直ぐになるかもわからず、車庫の柱に左側面をぶつけてしまった記憶がある。家の商用車を運転しなければならない時も、やはり細い路地裏の道路沿いの車庫に入れる際に、後続車を気にし過ぎて焦り車庫の側壁に接触してしまった記憶もある。いずれも時間をかけて慎重に行えば問題なかったのだが、焦ったり後続車がどう思うかという恥や外聞を気にした結果だと反省した。要は自らが苛立たずに「自分は自分」を貫けば避けられた自損であった。父にはそんな教訓で諭された覚えがあるがあまり過剰に文句も言わず、母も自家用車を修理代を工面してくれた思いに、いまあらためて感謝の気持ちも湧いてくる。

現代のこの国の社会には、外聞を気にした苛立ちがあまりにも多いのではないだろうか。自分自身を見失ってしまった結果、自己を制御できず大惨事を招いてしまう危険が随所に潜んでいるような気がする。問題なのは、道路上の運転が上手くいかないことではなく、その果てに焦ってもがいた挙句、自己を制御できなくなることである。その前に恥も外聞もなく、周囲の誰かに助けを求めればよい。社会の風潮もスマホ・PCをはじめとして「速さ」が何より大切だとされ、自動車運転でも「あおる」といった危険行為が頻発する。自動車の運転は個室空間でするゆえに、特に自動車の性能が長けていたりすると全能感が跳梁跋扈し、「遅い」車を「異常」と捉える”異常”な精神に至る。他車が「遅い」という意識は、確かに僕も持ったことがたくさんあるが、「飛ばした」ところで到着時間はそう変わらないものである。二十一世紀が、成熟した共生社会を求めるのであれば「待てる」社会を、自らの制御を失わない社会を、「成功」か「失敗」かの二項対立のみで苛立たない社会を醸成していく必要があるのではないだろうか。

若葉マークは何のために
慣れない人や未熟な人に寛容な社会であらねば
自分を制御できないことの恐ろしさをもっと深く想像してみよう。


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