近現代150年〜都と鄙の問題
2019-09-03
コンクリートに塗り固められた呼吸のできない土地で息を吸う人々
五輪でさらに人の住めない街になりはしないか
檀家となっている東京は下町・谷中の寺へと、両親とともに墓詣りに出向いた。日暮里駅から徒歩10分、熱射の中を歩いて現地に到着、墓詣りを済ませて僕が土産を買いに行っている間に父が変調をきたした。もとより水分補給をしないことをいつも戒めていたが、それを励行せずの脱水状態のようで、水分を補給してかろうじて大事には至らなかった。僕などの年代でも小まめな水分補給がなければ、この街で歩くことは不可能。高温や熱中症の喧しい報道は「暑さ対策」を促すのだが、その「暑さ」を造り出してしまったのは誰なのかと思うこともある。地球温暖化と云う世界規模の問題とともに、経済最優先で開発ばかりを進める都市構造は、自然の風が通らず緑が呼吸することなく、土が水分や酸素を通さない窒息しそうな環境になって来ている。少なくとも僕が小・中学生だった頃までは、東京もそんな土地ではなかったような実感がある。新築マンションは実に綺麗で虫や黴もいない清潔だと云う環境を誇るが、それはまた人間も住めないことへと繋がると思うのは、果たして極端な発想なのであろうか?
明治期からの近現代文学史において特に詩歌の面を考えるに、鄙から都へ「文学」で身を立てる環境を求めて上京した者たちが多い。明治18年生まれ、同年齢の若山牧水(宮崎出身)と石川啄木(岩手出身)もその際たる存在である。啄木は波乱に満ちたその生涯を27歳の若さで東京で終える、その最期を看取った親族以外の唯一の親友が牧水であった。その際の「現実」を、牧水はいかに受け止めたのであろうか。その後もしばらく牧水は、東京で文学で身を立てていくために生活をするが、明治40年代以降の急速な都市環境の変化は様々な思いを抱かせたに違いない。30代にもなると、自然を求めた旅にも多く出て、その歌も自然との「親和性」(伊藤一彦先生の指摘)が増してくる。終焉の地を静岡県沼津市の千本松原を選んだのも、東京への様々な抵抗感があったからだろう。昭和・平成の90年以上もの時が、さらにこの都市を贅肉だらけに肥大化させて来た。息のできない都市、宮崎に移住した僕だからこそ、自らの故郷を近現代文学史を鑑みつつ批判的に語っていく責務があるように強く思うのである。
飛行機で飛び上がると燻んだ大気が
来年に向けてさらに太り続けている
昭和の動脈硬化も起こしつつ、肥満化させ続ける東京は危うくないのか?
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