かの夏から74年目に
2019-08-16
「事実が伝わることは難しい既にあの過ちを繰り返していないか?」
「反省の上に立って」とは・・・
昨日の小欄に記したように、僕は「戦争体験をしている」と思っている。父が機銃掃射を受けたと聞いた時から、それは僕自身の命にも「戦争の凶弾が向けられた」と認識しているからである。その蛮行の一場面が、僕にはリアルな映像として脳裏に浮かび上がるのは、単に想像力の問題だけではないと思っている。幼少の頃に上野などに行くと、駅頭に不自由な身体を露にした傷痍兵の方々がアコーデオンなどの楽器で音楽を奏でて並んでいる姿も眼にした。その姿に耐え難き恐怖を覚え、思わず祖父の背に顔を埋めて見ないようにした鮮烈な記憶が今も甦る。戦後からまだ20年ほどしか経過していない頃、上野駅の地下道には戦争直後の匂いが多くの失われた命の叫びとともに籠っていた、という感覚が僕の体感の記憶である。
「NHKスペシャルー2.26事件の全貌」を観た。高等学校の「日本史でも覚える」その事件名の内実を、僕たちは知らな過ぎる。新資料の発見とともに、なぜ軍部が暴走したのか、その権力関係がいかなる社会の空気を生み出してしまったか、番組は知的に繊細に語ってくれた。番組の終わりに「語り」の女性アナが述べた趣旨を冒頭の最初に掲げた。「戦争」は急に勃発するわけではなく、社会が暴力的になり事実を歪めることに抵抗を覚えず、国民一人ひとりに「事実」が知らされなくなる「空気」こそを「反省」しなければならないのだろう。何より「尊い」と位置付けられるべきは、「機銃掃射」を受けてしまいかねない一人の「少年の命」である。「国益」「国難」という語彙もまた最近、耳にするようになってしまった。台風が来れば「全市に避難指示・・万人」と知らされる。一人ひとりはこれをどう「判断」すればいいと言うのか。
明治維新から終戦への77年間
終戦からこの夏まで74年間
近現代史で深く学ぶべきはまずは「ここ」なのであるが・・・
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